Quantcast
Channel: 日本共産党の赤い貴族問題
Viewing all 21 articles
Browse latest View live

日本共産党の”赤い貴族問題”と言う陰の歴史から続く党幹部の豪勢な生活は変わらない

$
0
0

かなり昔むかし、、

死んだ野坂参三のスパイ事件。
袴田事件、、など、

聞いてほしくない、無言にならざるえない、
肥溜めの臭う事件がけっこうある。



現在の志位委員長など党幹部の
赤い貴族。たち
赤い官僚。たち
は、おどろく豪華な別荘、うなる金の札束。



そんなことも知らず、入党する若者は
知っているのだろうか。。。。

札幌市議員も、議員給与以外に、別途交通費名義で
いただく金はちゃっかりもらい。
札幌市民の返還裁判で市民が勝訴したのに、。
不服で上訴したのだ。
これだって、
共産党市議が我々はもらいませんと言うべきなのに
もらえるものはなんでももらう。と。。







■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■


たしかに
99年の派遣法改正後、非正規雇用労働者の待遇問題など
について国会質問したのは、小池晃議員や小沢和秋議員ら共産党
の議員たちだった。
彼らは法律の名称を「労働者保護法」と改称
することや、派遣業務の対象を縮小することなど、党としての
改正案を提案していた。
しかし、
当時の共産党が組織を挙げて
この問題に取り組んでいたのかとなると、甚だ疑問である。



当時、
小沢和秋議員の秘書だった篠原常一郎氏が振り返る。


「派遣法改正で今後大量の失業者や貧困層が出現するだろうと予測し
、党としてこの問題に取り組むべきだと最初に提案したのは我々です。

ところが、
党の幹部たちの反応はさっぱりで、一様に苦虫を噛み締めた
ような顔をしていました。
というのも、支援対象に野宿者(ホームレス)
を含めたからです。
幹部たちは、野宿者などはルンペンプロレタリアート
であって、相手にすべきではないと言うのです。
彼らは何十年も前の発想で、
ルンプロに対する支援なんていうのは、
(彼らがニセ左翼と呼んでいた)新左翼の連中がやることだ、くらいに
思っていたのでしょう。
そうじゃなくて、時代が変わったんだ、
いまは
誰もが明日はホームレスになるかもしれないのだと、
いくら説明しても理解できない様子でした」



「ウチは慈善団体じゃない」と言い放った党幹部
つまり、
派遣などの非正規雇用労働者問題に取り組んできたのは共産党
のなかでもごく一部であって、党幹部らは派遣法改正など歯牙にもかけて
いなかったのだ。
あまつさえ彼ら党官僚は、「そんな票にもならないこと
をなぜやるんだ。ウチは慈善団体じゃない」とまで言い放ったという。


「共産党に入ればまともな会社には就職できない。運良く入れても出世
できない。そういうリスクを負ってでも人助けがしたいと思って入党した
のに、『ウチは慈善団体じゃない』とは何事か。



それが世の中の風向きが
変わった途端、コロッと変わって『格差是正の日本共産党です』と、
こうです。何たる偽善でしょうか」

篠原氏はそう憤る。


篠原氏は79年に入党。95年に参議院議員(当時)・筆坂秀世氏の
公設秘書となった。
その後、
03年に筆坂氏がセクハラ問題で党の
役職を罷免されると、これに抗議して翌年除名処分を受ける。



篠原氏によれば、
共産党の下部専従の生活は、それこそ「ワーキングプア」
そのものだったという。


「一応給料は出ていましたが、残業代はつかず、ボーナスも出ない。
しかも遅配欠配が多く、交通費などの諸経費は自分で稼げというのが
党の方針でした。だから私も、月に一度沼津の港から届くアジの開きを
トラックに積んで、党員や支援者の家を回って売って歩きました。
給料日前は飯が食えなくて、支援者の家に上がりこんで食べさせて
もらっていました」


その後、
議員秘書となった篠原氏は、当時の不破哲三委員長ら、
党官僚たちの
?ノーメンクラツーラ(赤い貴族)?
さながらの
華麗な暮らしぶりを垣間見ることになる。




「不破氏には神奈川県の津久井湖畔にある豪華別荘
(現在は自宅になっている)のほか、全国に複数の別荘があった。
津久井には、護衛、運転手、2人の料理人など、常時5人ほどが
泊まりこんでおり、彼らの住む別棟までありました。彼らは
みな党中央委員会の職員で給与は党から出ていますが、普通だったら
年収1億円以上なければできないような生活でしたよ」



また、
当時の不破氏には国会議員として支給される2000万円ほど
の歳費(うち700万円ほどは党にカンパ)のほか、
年に数点発行される著書の印税もあった。
党員や支持者に売るのだが、内容は
不破氏の講演テープを起こしたものが多く、
実際に書いているのは秘書たちだ。



不破氏ばかりでなく、下部職員が低賃金に苦しむなか、
常任幹部と呼ばれる20名ほどの
最高幹部らも1000万円以上
の年収を得ていたという。


これら篠原氏の証言が本当ならば、
とんだ労働者の味方である。


共産党は、94年に制定された政党交付金を「憲法違反だ」と言って、
受け取りを拒否している。


これを言ったのは故・宮本顕治元委員長
だったと言われており、
「支持政党にかかわらず国民の税金が各党に
配分される政党助成金制度は、
国民の思想・信条の自由を侵している」
というのがその理由だ。


しかし、
志が高いのはまことに結構だが、
その一方で
共産党が現実
にやっていることはどうなのか。


02年、元共産党国会議員秘書で、拉致問題に関わって党を除名された
兵本達吉氏らが
「党ぐるみで組織的、系統的に、しかも長年にわたって
年間何億という資金を国会議員秘書の給与から搾取していた」と、


共産党を東京地検特捜部に告発したことがあった。
兵本氏が89年から
98年まで10年間の給与明細をすべて調べたところ、
参議院から支給された
1億173万円のうち4813万円、つまり半分近くは党に
よって「ピンはね(兵本氏)」されていたという。
しかも、
このような秘書たちの給与からの天引きによって、
最盛時には
年間3億〜6億円にも及んだ

?差額?の使途は、
一般党員はもちろん、
「カンパ」したことになっている秘書本人にも
一切知らされていなかった。

このときの告発は不起訴処分になったが、
捜査にあたった検察側は
「これで共産党財政の外堀と内堀を埋めることができた。

次は本丸を狙えます」と兵本氏に語っていたという。

ここ最近、
『蟹工船』ブームも手伝って「一気に1万4000人
もの党員が増えた」と怪気炎を上げる日本共産党だが、
前出の篠原氏は
「高齢化が進み、活動家の主力は60代から70代。
亡くなる人も含めて、
実際は減っている数のほうが多いはず」と推測する。

この件について党中央委員会に尋ねたところ、
「1万4000人というのは
入党者が急増したので特別に出した数字であって、
全体の党員数は今年開かれる予定の党大会までわからない」
との回答を得た。

また、
若者の入党者が増えたからといって、
『赤旗』の部数は
かならずしも増えていない。

それもそのはずで、一日1000円
足らずで生活しているワーキングプア層に、日曜版も含めて
4000円近い購読料など払えるはずもないのだ。

今後とも引き続き財政難が予想される日本共産党。
意地を張らずに
「やっぱり政党交付金をください……」と
恥を忍んで素直
に申し出たほうかよろしいのでは?


ーーーーーーーーーーーーーーーーーー


大須田勉

スパイ野坂参三の仲間を密告し、帰国、知らん顔で平然と善人ぶり共産党最高幹部101歳の生きるが勝ち

$
0
0


↑写真=不破哲三、宮本顕治、野坂参三=日本共産党の三腐渦↑



■日本共産党の創造者、野坂参三の実像の記録の本■

『闇の男―野坂参三の百年 』
【著】小林 峻一 、 加藤 昭
 出版社 : 文藝春秋


日本共産党の「帝王」とも呼ばれた故・野坂参三を
共産党除名(追放)に追い込んだ一因と言われる
『週刊文春』のレポートを再編した本です。


戦前の日本の共産党弾圧下でそれでも活動していた仲間達を、
今度は自己保身のためにスターリン恐怖政治の下での強制労働、或いは処刑に追い込んだ片棒を担いだ野坂参三という人物の人間の醜さを、

ソ連時代の公文書を元に見事に暴いた渾身の本です。

野坂の「密告」のために人生を破たんさせられた人物が何人も紹介されていますが、やはり印象に残るのは

山本懸蔵(野坂の同志でありながら、野坂の密告により処刑)の
妻・関マツ(「第二章 望郷の女・関マツ」で紹介)でしょう。
夫を追ってソ連に渡ったものの夫が処刑されたりしたため、
貧困の中日本への帰郷だけを願い続け、ありとあらゆる妥協をしたにもかかわらず、

★(おそらく)野坂のために日本への帰国手段を封じられ、
最後は”発狂死”したという過程は悲しく、★

そして主義主張は異なれど権力に執着する人間というのがいかに恐ろしい物であるかをひしひしと感じさせます。


▲▲▲ーーーーーーーーーーーー▲▲▲
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★


■野坂 参三■

1892(明治25)年3月30日生(0歳)
1993(平成5)年11月14日没(101歳)

山口県出身
慶應義塾大學卒
日本共産党に入党
妻、野坂竜
1931(昭和6)年4月 妻とともにソ連に亡命
コミンテルン執行委員会幹部会員となる
ディミトロフ宛の手紙で山本懸蔵の疑惑を告発
?(1937(昭和12)年11月2日: 山本がモスクワでNKVDに逮捕される)
?(1939(昭和14)年3月10日: 山本が銃殺される)
1934(昭和9)年 渡米
第2次世界大戦中は中国の延安にあって中国共産党に協力
戦後帰国
衆議院議員
参議院議員
1958(昭和33)年 日本共産党中央委員会議長就任
1982(昭和57)年 日本共産党名誉議長
1992(平成4)年 山本懸蔵の告発が明るみにでる
1992(平成4)年 日本共産党より除名処分
1993(平成5)年11月14日1510 老衰のため自宅で死去

著作 自伝「風雪の歩み」

NKVD=ソ連の秘密警察内務人民委員部(NKVD)


★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
▲▲▲ーーーーーーーーーーーー▲▲▲


■山本懸蔵(やまもと けんぞう)■

1895年(明治38年)2月20日生 〜 1939年(昭和14年)3月10日)処刑銃殺

は、
労働運動活動家、日本共産党の活動家。
茨城県鹿島郡矢田部村(現在の神栖市)生まれ。
しばしば「山懸」(やまけん)の略称で呼ばれた。


1922年(大正11)に日本共産党(第一次共産党)入党。
1923年(大正12)6月5日の第一次共産党検挙事件に際してソ連へ密航。
1924年(大正13)帰国。
1928年(昭和3)2月20日の第1回普通選挙では、労働農民党候補として北海道1区から立候補した[1]が落選。
同年3月15日の 三・一五事件(共産党関係者一斉弾圧)では自宅療養、
ほどなく警察の監視下を脱出し、
同年6月にソ連へ密航。

1936年(昭和11)2月に野坂参三と連名で「日本の共産主義者へのてがみ」を発表。スターリンの大粛清が吹き荒れる
1937年(昭和12)11月2日、ソ連の秘密警察内務人民委員部(NKVD)により逮捕。1939年(昭和14)3月10日処刑された。



ソ連崩壊の1992年、
ソ連共産党の保管文書からソ連共産党・コミンテルン関係の機密文書の公開に伴い、山本の逮捕が、野坂参三による密告に基づいて行なわれた事を記した文章が発見された。



発見された資料をもとに、
『週刊文春』誌上に小林峻一・加藤昭らによる連載
「野坂参三疑惑レポート「同士を売った密告の手紙」」
が掲載される(翌年単行本化)。
1992年(平成4)12月、日本共産党は野坂を除名処分とした。


なお
加藤哲郎の調査によれば、
山本自身も、同時期にソ連に亡命していた数名の日本人、
勝野金政、
根本辰(ねもと・とき)、
国崎定洞(くにざき・ていどう)、
伊藤政之助ら
をスパイと疑い、ソ連秘密警察やコミンテルン国際統制委員会へ
密告ないし告発するなどしていたという


また和田春樹の調査により、
野坂による山本密告とほぼ同時期に、
山本自身も野坂を密告する準備を進めていた事が判明している。


▲▲▲ーーーーーーーーーーーー▲▲▲
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★


ソ連解体後、表に出はじめた秘密文書を、
日本の週刊誌がモスクワで買い込んできて、
野坂がコミンテルンで活動していた当時、保身のため、同志を日本の警察のスパイだとする偽りの告発をおこない、死にいたらしめたという資料を発表したこと。


私たちは、モスクワに人を派遣して関係資料を入手するなど独自の調査をするとともに、

?野坂当人にも確かめ、野坂自身、偽りの告発という事実を認めたので、中央委員会総会(1992年12月)で、除名を決定したこと。

?その後、さらに、延安から日本への帰国の途中、
野坂は、秘密にモスクワに呼ばれ、赤軍情報総局に直結する工作員という任務をもって、日本に帰国した事実が明らかになったこと。
この事実も、野坂が認めたこと。



<ディミトロフ>
私は、この話を、他国の共産党にたいするソ連の密室的な支配の陰謀と性格づけて語った。そのなかで、ヒトラー政権下の法廷闘争でナチの告発者たちを論破して世界に名をはせ、コミンテルンの書記長となったディミトロフが、コミンテルンの解散(1943年)とともに、一部長(国際情報部長)としてソ連共産党の組織に組みこまれ、ソ連のために秘密工作者を選定する役目を引き受けていたこと、



?野坂がソ連の赤軍情報部門につながる工作者となったのも、このディミトロフが人選してスターリンに推薦した結果であった。


★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
▲▲▲ーーーーーーーーーーーー▲▲▲


■日本共産党の獅子身中の虫:野坂参三■

野坂は実は,旧日本帝国と日本の皇室を守るために,旧治安維持法に真っ向から違反する政治結社:日本共産党に幹部としてもぐりこみ,それこそ「獅子身中の虫」となって,社会主義思想革命の実践活動を内部から瓦解させる役目を忠実に果たしてきた。野坂参三に隠された基本的な任務は,本当はこちらにあったのである。



野坂参三はなかでも,日本共産党の内部に巣くう最大の悪害虫であった。
この党が特定の活動をするたびに,あるいは
ソ連で教育した党員を日本に送りこむたびに,
間違いなく繰りかえしていつも,その関係者がまとめてごっそり検挙されていた。

そうした検挙を確実にさせるために必要な情報を,
参三は日本帝国当局側に提供しつづけきた。
彼はそのように汚ない「忍者のような役目」を忠実に遂行してきた。
野坂参三の家系図に出ている人物のうち,
政府の高官・重職を歴任していた次田大三郎は,野坂の義兄である。


100歳にもなったときの野坂を除名した日本共産党のおめでたさは,ことばには形容できないほどである。だが,そのことよりも,日本帝国がわがこのような人物を育て,共産党のなかに静かに扶植しておき,この党の活動をずっと監視する装置としてあれこれ利用してもきた歴史に,われわれは注目すべきである。




■ 思想よりも家系のしがらみのなかの野坂参三■

 ■★ 日本帝国の手先だった野坂参三★■

問題の焦点は,敗戦直後に日本の天皇制を護持する機能を客観的に発揮してきた人物が,なんと,つい最近まで天皇・天皇制を完全に否定してきた日本共産党の最高幹部:野坂参三であったところに向けられる。

日本共産党の政治目標(綱領)は,2004年に開催した党大会以前までは「天皇・天皇制を絶対に認めない」という社会主義変革・革命思想にしたがい,樹立・決定されていた。ところが,この党の最高幹部を務めてきた人間が,すでに戦前から,それとはまったく逆方向の考えを秘かに抱きながら,しかも同時に,この党を絶えず破壊すべく「国家のためのスパイ活動」にも従事してきたのである。この歴史的な事実は,「〈国家悪〉の手先」を超絶的な次元で演じていた野坂が〈大した役者〉であったことを物語っている。



しかし,なぜ
野坂参三はそのような役割をあえて担ってきたのか? 
『実録 野坂参三』はその背景として家族関係を中心に,これまではまったく解明されていなかった問題領域を,いいかえれば,
野坂の謀略活動をつうじて日本の「共産主義運動」の秘密を再検討したのである。


野坂が日本の天皇制国家機関・アメリカ・ソ連・中国共産党の4重スパイであったことは間違いない,と
『実録 野坂参三』は断定する。

しかも,天皇制は,地球次元で私物化を図る国際謀略機関によって守られている。野坂はこの国際謀略機関の代理人(エージェント)の一員であったと考えるべきである。これが結論である
(以上2つの段落は,同書,16頁参照)。



それにしても,このような人物を党の幹部・党首に長く戴いてきた日本共産党は,ずいぶん長い期間,なにもしらずに「いい面の皮」状態に置かれてきた。
野坂参三を除名すればそれで済まされる,というような問題=党史の展開ではない,深刻で重大な「過去の現実」が連綿と続いてきたのである。




■『実録 野坂参三』において興味ある見解は,
大約すれば,こういうものである。

戦前体制のなかでは,「日本共産党」という反体制・非合法政党に向けてあらゆる反体制派の人びとを引き寄せ,ここに集合させておく。そして,その過程においては政治的な操作・組織的な謀略・社会的な陰謀などを使いながら,反体制の思想・立場に立つ人びとを,この共産党を寄場として一網打尽にしていく,というものである。
野坂はそのためにこそ,「旧日本帝国のために働いた」人間であったのである。


野坂はあたかも,イカ釣り漁船に乗り,集魚灯を操って,イカをおびき寄せ,このイカを釣りあげる「船長:漁撈長のような役割」を果たしてきたわけである。
帰る港で水揚げを納める網元は,もちろん旧日本帝国治安当局であった。


戦前〔あるいは戦後も〕において,日本共産党員の個人的情報は漏れなく,
野坂の手を介して”治安当局”にわたっていたことになる。



日本共産党が敗戦後,天皇・天皇制を当面存続させる意見を披露したが,これももっぱら野坂の主張に依拠していた。東京裁判に昭和天皇が出廷しないで済むように野坂は努力した。

野坂は生きているあいだ,天皇・天皇制の支持者であった。野坂が大正前期に学んだ慶応義塾理財科では,小泉信三に卒業論文〔社会主義思想に関する〕を提出していた。


小泉信三が日本の天皇家とどのくらい親しくも忠実な間柄にあったかは,平成天皇に現在の配偶者を引き合わせる〈任務〉を成就したことからも明らかである。小泉が欧米〔英米〕諸国の特定筋と一定の関係を保持していたことも推定される。信三は,皇太子時代における明仁の師父としてその養育を担当した人物である。


野坂はこの小泉のもとで,「敵をよくしるために」社会主義の勉強をし,卒業論文も書いたのである。けっして,社会主義革命を達成しようと慶応義塾で勉学に励んだのではない。


■家や家族制度にもとづく経済・社会研究の必要性■

『実録 野坂参三』「あとがき」は,「日本の社会で生活していくには,人間関係が大切であり,とくに長子相続制の支配していた明治・大正・昭和の時代には,家系は重要な要素であり,人間活動を研究対象にする社会科学において家系図の研究は,あくまでも研究対象に成り得るものである」という。そうしてこそ「野坂参三が一生涯謀略活動を行い得た背景を知る」ことができ,「また,天皇制支配国家体制およぼ国際謀略機関のエージェントの一員として謀略活動に従事してきた野坂参三の人生を見直してみること」もできる,と主張している(457頁)。




野坂は「スターリンの粛清に協力した張本人である」。
「アメリカより強制退去させられた日系アメリカ人の銃殺に関係した」。
ソ連で、、、



■★野坂は、★■
「山本懸蔵を密告し」ただけでなく,
その「妻・関マツ」を「狂死に近い悲惨な末期に追いやった」。

夫を追ってソ連に渡ったものの夫が処刑されたりしたため、
貧困の中、”日本への帰郷だけを願い続け”、、
ありとあらゆる妥協をしたにもかかわらず、

★野坂の手によって、に日本への帰国手段をことごとく封じられ、
最後は”発狂死”したという過程はすさまじい★


その野坂参三の
悪魔よりまさる超越した非人さに、仮面の奥の深さに
101歳腐肉の最期を見る。

この関マツ、を足でグチャぐちやに踏みつけても
何も感じない、帰国後日本共産党を創りその帝王で君臨して
金に飢え、名誉に飢え、101歳まで生きたかった。
それが日本共産党の泉なのです。




「アメリカで日本の公安警察のスパイであったジョー・小出を使っていた」
(『実録 野坂参三』360−361頁)。



日本・ソ連・中国・アメリカの各国間を動きまわり,八面六臂の大活躍とでも形容すべきスパイ活動をしてきた野坂参三であった。
それにしても,野坂がそのように世界を股にかけて縦横無尽に活動できた背景事情,いいかえれば,それを可能にする国際横断的な協力組織が控えていたことに気づくべきである。


★★★★★★★★★★★

大須田勉

日本共産党袴田里見事件/1977年勃発・組織をもってして人間攻撃/組織を防衛する

$
0
0


最前列3人=宮本・野坂・袴田里見↑

■日本共産党袴田里見事件■

組織が、生の人間の上位にある。
と言う証明事件。

袴田里見!日本共産党に楯突くとは50億年早い。と言う事件
(太陽系=あと50億年で爆発します)



袴田里見(はかまだ さとみ)、
(1904年(明治37年)8月11日 〜 1990年(平成2年)5月10日=86歳没)

は、大正、昭和期の社会運動家、元日本共産党の幹部。
戦前の非合法政党(第二次共産党)時代以来の共産党活動家で、
戦後は党副委員長となった。
1977年、党から規律違反により除名処分を受けた。



■履歴書■
●1904年(明治37年)8月11日 - 青森県上北郡下田村(現在のおいらせ町)に生まれる。

●1919年(大正8年) - 高等小学校を卒業後、上京して攻玉社中学に入学するが中退。電信労働者、製缶工などの職に就きながら労働運動に関わるようになり、
東京合同労働組合に入り活躍する。

●1925年(大正14年) - ソビエト連邦に渡り、
モスクワの東方勤労者共産大学(クートヴェ)に学ぶ。

●1926年(昭和元年)[元号要検証] - ソ連共産党に入党。

●1927年(昭和2年) - クートヴェを卒業し、帰国。
”宮本顕治”らと日本共産党の再建に着手する。
しかし、治安維持法違反で検挙され、堺刑務所に服役する。

●1932年(昭和7年) - 釈放後、地下に潜伏し東京市委員など共産党運動に取り組む。
昭和8年(1933年)日本共産党中央委員に選出される。

●1935年(昭和10年) -”宮本顕治”などの幹部が次々逮捕される中、
唯一獄外にいた共産党最後の中央委員であったが、本郷での全協との街頭連絡のさなか再び逮捕される。獄中では非転向を貫く。この逮捕を報道した新聞は最後の大物と称した。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

終戦後 - 他の共産党員とともに釈放。

以降、中央委員、政治局員、幹部会員を歴任。

●1959年には参議院議員選挙に立候補するが落選する。

●1970年(昭和45年) - 党副委員長に就任。この間に党を代表してソ連や中国を訪問。


ーーーーーーーーーーーーーーー


■日本共産党袴田里見事件の勃発■

日本共産党の世間に見せられない肥溜め欲望の悪魔男の蓋を
袴田里見が開く。



しかし、善人心では組織は作れない。
人を人と思わず、地獄の滴る血を飲み干し、食い殺す様な悪魔心を持たずして
組織は作れない。から、あって当然である。
人民をブルトーザで、踏み潰しその潰れた肉を土台にして、
組織を建てる心のない者は、組織構成員になるべきではない。

しからば、
赤攻撃・地獄のリンチ・投獄にあろうと、
日本共産党は、たとえ人類が絶滅しても
共産党生物種として生き残る。




●1977年(昭和52年) - ”日本共産党査問リンチ事件”に関連して
週刊誌などで虚偽により、■党や宮本顕治を攻撃した■。

これは党規約の「党内の問題を党外に持ち出さない」という基本原則上問題となり、

本人も党の調査に応じなかったことから、
●1977年12月30日の党中央統制委員会で本人欠席のまま、
「規律違反(党外からの党攻撃)」を理由に除名処分を受ける。

●1978年(昭和53年) - 11月に、
⇒新潮社から手記暴露本「昨日の同志宮本顕治へ」を出版し、

反共層を中心に話題を呼んだ。
また
⇒1978年12月には「私の戦後史」を朝日新聞社で出版した。

●1988年(昭和63年) - 袴田里見が除名後も党と関係が全くなくなったにも関わらず依然として居住していた、

共産党所有の家屋の明け渡しをめぐる訴訟(共産党袴田事件)で、
最高裁判所が袴田の上告を棄却し、敗訴が確定。

●1990年(平成2年)5月10日 - 86歳死去。




■エピソード■

没後公開されたソ連の秘密文書により、
野坂参三(後に彼も重大な規律違反が判明し当人もそれを認めたため除名処分)、

とともにソ連からの秘密の接触がしばしばあったことが判明した。

実は袴田里見は日本共産党を除名される前にも、
野坂参三に関する疑惑を暴露している。

日本共産党は「反共毒素一掃キャンペーン」として多数のパンフレットや書籍を発行していた。
これは「現役党幹部が叛旗を翻した」ことによるダメージの一掃、と推測されるが、
野坂参三の疑惑を党自体も承知していて、それを隠蔽したいが為であった。
という意見もあるが、

当時は、ソ連秘密文書はなかったわけであり、
事実と道理に基づいて問題点の解決にあたるという基本方針上からは
問題のないことがらであった。




弟の袴田陸奥男は、ソ連に亡命した日本共産党員。

青山学院大学教授の袴田茂樹と、
ロシアの政治家イリーナ・ムツオヴナ・ハカマダは
袴田陸奥男の息子と娘である。

すなわち袴田里見からみれば甥と姪になる。
共産党除名当時、
袴田里見は党が所有する家屋に居住しており、
除名により党が明け渡しを求めて袴田里見を相手取って民事訴訟を起こした。
除名処分という政党の内部審査が司法審査に馴染むかが争点となったが、
最終的に裁判所は党側の主張を認めた。

この点では、
組織が個人に勝った。と言える。

ーーーーーーーーーーーーー

大須田勉

元日本共産党幹部=湊靖人&湊ます子自宅2階で湊伸治らが女子高生を肉潰しリンチ虐殺害

$
0
0

↑県立八潮南高校3年吉田順子(当時17歳)↑

 

↓足立区綾瀬女子高生誘拐監禁集団リンチ虐殺コンクリート詰め死体遺棄事件↓

http://blog.goo.ne.jp/xdr123/e/e62e97226587239549f9ab34a419d3e3

リンチ虐殺現場=元日本共産党幹部=湊夫婦自宅2階

湊靖人(69歳)&湊ます子(68歳)=2010年現在年齢

ーーーーーーーーーーーーーーー

 

事件番号=平成2う1058。
遺体発見=1989年H1年3月29日


犯人顔の画像=Google画像にある。

A横山裕史(40)=(旧宮野裕史)
B神作譲(39)=(旧小倉譲)
C湊伸治(38)
D渡邊泰史(39)
2010年12月末.現在の年齢

 

 

?宮野 裕史(A)みやのひろふみ
(1970.04.30)
主犯格。懲役20年の刑で服役し。
■2008年平成20年=主犯格A(宮野裕史)出所。
=関西地方の保護司と養子縁組済み=横山裕史

横山 裕史(旧姓は宮野)=S45年4月30日生=主犯
養子縁組で改姓、160cm、H19年5月川口市で解体業。

 

中学時代は軽量級の柔道の選手として活躍。身長160cmと小柄だがガッシリとした体格。付属男子高校中退。見習いタイル工として働き始めるが暴力団員と知り合い、パシリとなる。  

・父親(当時47歳)…証券マンを経て証券外務員に。  
・母親(当時47歳)…私大音楽学部卒業後、ピアノ教室の講師に。  
・妹…事件当時11歳 
事件後、両親ともに辞職。

妹の家庭教師の日記がHPで公開されていた。

当時から父は愛人宅にいて、家庭は崩壊していおり、夫婦仲に問題があった。小学校の
頃には既に問題行動があった。話し上手で面白いという評判もある。小5でパンチパー
マ。ヌンチャク・木刀を持ち小学校に「殴り込み」をしたことがある。「悪いことはか
っこいい」と思っていたが、6年生の時に出来た勉強好きの親友に影響され真面目にな
る。卒業文集には「少年院の院長になりたい。オレ、悪いことをいっぱいした。万引き、
ケンカ、たいがいのことはやった。だから、悪いことをやった奴の気持ちがわかる。オ
レなら非行少年と呼ばれてる連中を立ち直らせてやれる。オレに向いてるのはそういう
仕事だと思う」
中学入学と同時に周囲の人のすすめで、柔道部に入部。体型は小柄(160cm)だったが、
練習熱心で3年の時に都大会で2位になり、東海大付属高へ推薦入学。高校の柔道部の先
輩・顧問に体罰を受ける。その内容はAの父親が裁判所に訴えたほど酷く、殺虫剤にライ
ターをかざしあぶるなど度を越したものだった。 憂さ晴らしに街で手当たり次第に喧嘩
を売るようになり、家でも物を壊し、母親に肋骨を折る重傷を負わせたこともある。

高校を中退、中学の頃から付き合っていた同級生(D渡邊泰史の姉)と同棲。
18になったら結婚しようと1年半、タイル工として真面目に働くが、自動車学校の合宿場で知り合った暴力団員と知り合い銀座の生花商でアルバイト。やめられる雰囲気でなく、現実逃避するためにシンナーを始める。シンナーを吸っている時にしか楽しいと感じない生活。
暴力団の組織「極青会」を作る。

 


?小倉 譲(B)おぐらじょう
(神作と改姓して神作譲)かみさくじょう
(1971.05.11)
サブリーダー。すでに刑務所から出所。 

主犯格の1年後輩。180cmを越す長身。検事や弁護士の質問に太い声でハッキリ答える。  
・父親(当時42歳)…運送会社の配達員。長身。愛人との間に2人の子供がいるが、母親との籍はなぜかそのまま。 
・母親=小倉 悦子(当時43歳)…都内デパート勤務を経て、結婚後は得意だった洋裁で内職。父親が女に走り別居。その後水商売にて一家の大黒柱に。 
・姉(当時20歳)…私立高校卒業後、都内会社員。


小倉という姓でしたが、女子高生殺害事件のあと、埼玉県の篤志家、神作某氏の戸籍
上の養子になりました。
神作某氏は少年犯罪者の更生に力を入れている人で、Bを戸籍上の養子にすることによって姓を変えさせ、社会復帰しやすくなるよう配慮をした人です。そういう篤志家の誠意も踏みにじったのです

 

2004年6月、神作譲の名前で再犯し逮捕された。
この男はこの事件に関して無反省な発言を繰り返し、類似の事件を引き起こした
■2005年平成17年5月13日
神作譲は控訴を取り下げ、懲役4年確定。

 


?湊 伸治(C)みなとしんじ
(1972.12.16)
犯行現場の部屋の提供者。すでに刑務所から出所。 

JR常磐線綾瀬駅から北へ15分ほど歩いた住宅街。玄関と二階ベランダが南欧風、3DKの建て売り住宅。約百平方メートルの敷地いっぱいに建っていて、両隣の家とは人がやっと入れるほどの狭さ。近くに小さな公園有り。事件の13年前、一家は同じ足立区内から引っ越してきた。  
「足立の学習院」と言われたエリート中学卒。その後、都内では唯一の化学専門工業学校に進学。  
・父親=湊靖人(当時48歳)…東京湾近く、隅田川沿いに近い町工場が密集した一角にある診療所にて事務長。入院設備は無いが七つの診療科目を備えた大きな診療所。仕事と酒で子育てはすべて母親任せ。  
・母親=湊ます子(当時47歳)…父親と同じ診療所にて看護婦主任を勤める。事件後、23年間勤めた診療所を辞職。

●この両親が共産党員であったため、
警察はマスコミを恐れてなかなか家に踏み込めなかった。

仕事一筋の父親はきびしい体罰をふるった。少年が決められた家事の分担をしないこと
などを母親から相談されると、少年をたたき起こして叱った。泣いて逃げる少年を追い
かけて殴ったり、深夜外へ引きずり出して、公園を走らせたこともある。
父親は、毎晩酒を飲んで帰宅した。少年とその兄(18)は「週に1回はなぐられていた。
ぞっとするほど怖かった」と、弁護士に証言。父親は、「月に1度いや、年に数回しか
なぐった覚えはない」と述べている。父親が体罰をしなくなったころ、C少年の家庭内暴
力がはじまった。
通っていた公立中学校は進学名門校だったが、ここでも教師の体罰が横行していた。生
徒は毎日のようになぐられた。C少年も、バスケット部顧問の女性教師になぐられ退部。
中学でAの2年後輩。工業高校に入るが2学期には中退。
この事件が発覚した際、別件で既に栃木の少年院に送られていた。東京に呼び戻し逮捕。


・湊Cの兄=湊 恒治(当時17歳)…小倉譲(サブリーダー)と中学の同級生。
ほとんど一部始終を目撃し、時には食事を運んでいたにも関わらず事件発覚まで沈黙を守る。


湊の両親は2人とも共産党幹部。
警察が逮捕状を持っていった段階で
速攻で弁護士を用意し、
家宅捜索も弁護士立ち会いの元で行われた。
党は、事件後すぐの段階で湊の両親を除名し、
「共産党とは一切関係がありません」と発表。

そして、「監禁という認識がなかった」「少女は帰る気がなかった」
等の湊の母親の自己弁護的記事を赤旗によって
1989年5月20日〜27日まで連載コラムでバックアップ。
湊靖人&湊ます子への援護記事文。

●共産党・橋本敦議員(参議院)の発言
さまざまな少年事件は、社会全体の構造の歪みや
受験戦争などの教育の歪みといった背景の中で
おきてくるものです。・・・
被害者による報復主義には反対ですし、20歳未満の少年は
まだまだ未熟ですから、教育し、更生させていく必要が
あるんです。(インタビューより)

 


?渡邊 泰史(D)わたなべやすふみ=監視役
(1971.12.18)
刑事裁判で、実刑判決を受けた少年が収容されている川越少年刑務所(埼玉 川越市)。
ここに、彼女の監視役だったD(渡邊)が服役する。
D(渡邊)は11月の強姦に加わり、
最後の暴行では彼女を鉄球で、何度も殴るなどしている。

1996年11月=D(渡邊)が仮出獄

少年院でいじめに合い、現在引きこもり症候群。 
四人の少年達の中では一番痩せていて、声が小さく、右後頭部、中学教師の体罰を受け出来た10円玉程の白髪が、公判時にはこぶし大にまで広がっていた。定時制の工業高校へ進むが1週間で行かなくなる。ファミコンが好き。  
・父親:幼少時(5歳)に離婚。その後まもなく交通事故で死亡。  
・母親(当時44歳):元美容師。離婚後、生活保護を受けながら時計部品の工場でパート勤務。  ・姉(当時18歳):母親との面会拒否の為、姉が面会・差し入れを続けていた。 
姉=宮野裕史(A)と付き合っていた=同棲。

 


仮出獄後:
小さなアパートでの二人暮らし。D(渡邊)はふすまに鍵をかけ、6畳の部屋に閉じこもっているという。母親は3畳の台所で寝起きをし、親子の会話はほとんどない。55歳になる母親は、事件後、仕事を3回変わった。親戚や近所とも、ほとんど付き合いはなく、人目を避けるように暮らしている。

渡邊 泰史=S46年12月18日生
横須賀市金沢区六浦東OO住宅に母ヤスと2人暮らし
 


?中村 高次(E)なかむらこうじ
A宮野、B小倉、C湊からささいなことでリンチにあう。
現在は地元スナックでこの事件のことを面白おかしく語る無反省人間。

 

?伊原真一(F)いはらしんいち
家庭裁判所での審判の結果、伊原 は半年間の少年院送致になった。
北アルプスの麓、長野県穂高町に初等中等少年院 有明高原寮はある。
ここは、短期間で更生が可能とされる少年を収容している。
鉄格子や鍵はなく、全国でも唯一の完全な開放施設だ。
伊原は、ここで半年間を過ごすことになる。

1989年5月=入院
1989年秋=仮退院

現在は建築会社で働く
1994年に結婚 事件のことをすべて話したという
伊原= 最初はやっぱりビックリして(今の嫁が)、何日か会わない日が続いたんですけど……彼女も悩んだところがあったんでしょうけど……今の自分を見ててくれる部分もあって……。
そして、子供(娘)が生まれた
新聞配達員を経て、某建築会社で社員として働いている
 


?湊Cの兄=湊 恒治(兄、1972年S47年1月21日生)(G)

 


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

■日本共産党=橋本敦、と言う人物■

生年月日=1928年8月23日(現在82歳)
出生地=大阪府
出身校=京都大学
現職=弁護士
所属政党=日本共産党
称号=日本共産党永年党員

これで、党からの年金生活の保証で安泰。

選挙区=大阪府選挙区
当選回数=4回
任期=1974年7月8日〜1998年7月25日


●1928年大阪に生まれた。
●1951年京都大学法学部を卒業。
●1957年より弁護士を開業する。
●1974年、大阪市長選挙に落選後、
●日本共産党のすすめにより参議院大阪選挙区で立候補、初当選。以後当選4回。

 


●ロッキード事件の調査のために訪米し、
共産党国会議員団の代表(橋本敦)として疑獄事件追及に尽力する。


●1987年、大韓航空機爆破事件を受けて北朝鮮の拉致に疑惑を感じ、
橋本敦は調査を始める。

●1988年(昭和63年)3月26日、参議院予算委員会において日本人拉致問題に関する質問をして国家公安委員長梶山静六から北朝鮮による関与が濃厚とする政府答弁を初めて、
橋本敦は引き出す。


しかし、
?失踪問題を国会で初めて取り上げたのは、
1980年、公明党の”和泉照雄”。
?北朝鮮拉致問題を国会で初めて取り上げたのは、
1988年1月の民社党中央執行委員長”塚本三郎”

 

 

●2002年、橋本敦のかつての秘書兵本達吉から、
「拉致事件の解明を妨害してきた張本人」だと非難されるが橋本はこれに反論した。

参議院議員の任期満了に伴い、議員生活を終える。
現在は大阪府在住で、北大阪総合法律事務所にて弁護士活動をしている。

 


<橋本敦と兵本達吉との争い>、
■兵本の告発の主な内容とそれに対する橋本の反論■
?兵本は、「私を除名したのは拉致問題解明の妨害」だと主張している。

?これにたいして橋本は、「98年3月の時点で兵本は定年だった。兵本をやめさせたいのであればそこでやめさせればよかっただけの話だ。しかし私は定年延長の手続きをしている。

除名の原因は5月に兵本が、
警視庁警備公安警察官に自分の採用を事実上依頼する対応をしたことである。」
と反論している。

?兵本は、「私が拉致の解明のために出張をしようとすると橋本にとめられた事があった」
と主張している。

?これに対して橋本は、「その件は党議員団が行うべき調査活動というようなものではなかったので止めただけで、拉致解明を妨害する意図などない」と反論している。

?兵本は、「橋本の質問内容はほとんど私が書いたもので、橋本はそれを読み上げただけ」と主張している。

?これに対して橋本は、「拉致問題を取り上げようと言ったのは自分であるし、原稿も秘書の資料を踏まえて私が書いたもの」と反論している。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーー
大須田勉

 

日本共産党の代々木病院精神科へ強制収容隔離・まず1桁政党でも十分幸せ・志位和夫セレブ生活

$
0
0

9999文字数

↑兵本達吉写真

日本共産党や最高指導者への批判者や異分子を
東京勤労者医療会代々木病院精神科、
に送りこみ精神医療を懲罰に乱用する日本共産党(2000年告発事件)
日本共産党反分子囲い込み戦略=代々木病院精神科=特別収容所棟
月刊正論4月号=2000年4月告発

カルト宗教団体と日本共産党は動作回路は似ている。


■正論2000年4月号(P212〜)より抜粋コピー■

告発対談
タイトル:
私たちが体験した日本共産党の”収容所列島”

元日本共産党国会議員秘書=兵本達吉
元民青中野地区委員会副委員長=安東親範
司会=産経新聞政治部次長=関田伸雄



■東京勤労者医療会 代々木病院
住所=〒151-8556=東京都渋谷区千駄ヶ谷1−30−7
電話=03-3404-7661(代表):FAX=03-3404-7456
●病床数=150床
150床(回復期リハビリ病棟49床、人間ドック3床)、透析ベッド35床
●診療科目
精神科・
内科・循環器科・消化器科・呼吸器科・リハビリテーション科
・外科・神経科・整形外科・眼科・皮膚科・婦人科・麻酔科・泌尿器科


 

 

■代々木病院の党役割と存在意義■

日本共産党系の医療機関団体「全日本民主医療機関連合会(民医連)」の総本山とも言える
代々木病院が、世界の共産主義諸国において人権弾圧の中心的役割を果たした
●代々木病院=”強制収容所(ラーゲリ)”と化している。


党や最高指導者への批判者や異分子に
「精神病患者」のレッテルを貼って葬り去ろうとしている。

日本にもソルジェニーツインが描いた”収容所列島”が存在している。
●知られざる実態を元共産党員の二人が告発する。

 


↓事件発端↓
■年賀状が発端の精神鑑定■

司会−まず、お二人が強制的に代々木病院精神科で
精神鑑定を受けさせられた経緯をお伺いしたい。

 

兵本達吉=私の場合は1990(平成2)年の年賀状が発端でした。

1989年は東欧の社会主義の崩壊があり、暮れに自宅で年賀状を書いていたら、テレビのニュースにルーマニアのチャウシェスク大統領夫妻が逮捕されて銃殺された場面が映し出された

人々は「チャウシェスクはドラキュラだ」と厳しく非難していました。

それを見て私はカッときたわけです。
なぜかと言うと、


●宮本顕治の指導下にあった日本共産党はそれまでチャウシェスクを「東欧の自主独立の政策を進めている人物であり、国内的には社会主義国家の建設を順調にやっている」と称え、「ルーマニア人民の英雄である」と天まで持ち上げていた。


こういう例は他にもあって、
●宮本顕治委員長はソ連を訪問してブレジネフと共同声明を発表して世界平和を謳い上げた。


ところが声明発表のわずか3日後に
ソ連がアフガンに軍事侵入しました。


ことほどさように
宮本顕治はトンチンカンなことをやる。

私は前々から宮本顕治のやることに批判的だったので、チャウシェスク処刑の場面を見て、頭にカッときて、
「宮本顕治独裁三十年」と書いたんです。

 

司会−ほほう、それで。


兵本達吉=正月が終わって国会(参院議員会館)へ出勤したら、党本部の書記局から「ちょっと来い」と呼び出しがあり、行ったんです。

宮本顕治の右腕とも言われていた書記局員が、私の出した年賀状を手に「君、これ書いただろう」と言うわけです。

否定もできないので「そうです」と認めたんですけど、
●密告の、共産党では報告制度と言うんですが、素早さには本当に驚きました。

「どうしてこういうことを書くんだ」とギューギューやられた。事実上の査問です。
最初のうちは私も「宮本顕治が独裁しているのは事実だと思う」とがんばった。

書記局員は「日本共産党は民主的に運営されている。宮本顕治だって党大会で選出されてやっているんだ」と言う。

形式的にはそうだけれども、日本共産党の党大会というのはあらかじめ誰が中央の役員に選出されるとかは、宮本顕治が引き続き委員長をやるとか筋書きが決まっている。

ほかにも書記局長や国対委員長の決裁で決まった国会の代表質問の原稿が宮本顕治の鶴の一声で正反対の内容に書き換えさせられたこともたびたびあった。

それを指摘して「これを独裁と言わずして何が独裁か」と2、3時間頑張ったけれど、とても認められる雰囲気じゃない。

結局、「間違ったことを書いた」と認めて謝罪するか、開き直って議員秘書を辞めるかの二者択一を迫られたわけです。

でも、私はその時、逃げ口上なんだけど

「一連の東欧の社会主義国の崩壊を目撃して非常にショックを受けた。
(年賀状を書いた時は)精神が動揺して情緒的にも不安定だった」と言ってしまった。
向こうはそれにパッと飛びついてきて
●「君は情緒不安定なのか。正常だったらそんなことを書くはずがない。精神鑑定を受けろ」ということになってしまったんです。

 


安東親範=私は日本共産党の方針を百パーセント正しいと信じていましたし、
日本共産党を批判したこともなかった。

1986(昭和61)年に中央大学を中退して民青中野地区委員会に加盟し、
1986年に共産党に入党、熱心に活動したもんですから
1987年には民青中野地区の副委員長になり、
1988年には民青を卒業して共産党中野地区委員会の専従党員となり、
牛乳配達をしながら真面目に党の仕事や学習をしていました。


民青の時代には、機関誌の民青新聞の代金にしても各地区の委員会は滞納が多くて、
7月と12月のボーナスでカンパを集めて払うような実情で、
中野地区委員会でも四百部が降ろされてきて実際配られるのは百部くらいでした。

自分の場合は民青新聞をきちんと配達、集金して半年以上も連続して月内に上納金を完納し、東京都の常任委員会でもほめられたり発表されたりしていました。

また日本共産党の指定文献はすべて読み、
中央委員会の決定も決定の翌日には読了していました。

それが、民青の副委員長になってから仲間に「頭がおかしいんじゃないか」と言われるようになったのです。
そのうち、陰口だけじゃなく、面と向かって
「精神病院に連れて行くぞ」と言われるようになったので、

民青を卒業後の
1988(昭和63)年11月ごろ、日本共産党本部の訴願委員会に「自分は一生懸命活動しているのに何とかしてほしい」と手紙を書きました。


●訴願委員会というのはそういう訴えを受けてその解決を図るところです。

ところが、
訴願委員会から自分のところには一切の連絡もないまま、ある日、地区委員会の組織部長に

●「お前、日本共産党の中央に何か書いただろう。
代々木病院へ連れて行けという指示だ」と言われた。

機関紙部長も「もう代々木病院の予約取っちゃったから」と言う。
自分は断ったんですよ。
けれど相談する人もいないし、上級組織の東京都委員会だとかあちこちに手紙を書きました。
が、これも一切無視されました。
自分が機関紙部長に

「私は正常だから代々木病院には行かない。おかしいのはあなただ」と言うと、
「じゃ、俺も一緒に検査を受けてもいいから」と言って、
結局、だまされるようにして
1989(平成元)年1月の末に
●代々木病院精神科に連れていかれました。

 

兵本達吉=安東親範は物事を几帳面にまじめに考えながらやるタイプ。
日本共産党の常任活動家としては向かないタイプですよ(笑い)。
適当にやらないと、あの世界はやっていけないの。

機関紙の赤旗を拡張しなさいと言われても、そんなもの増えるわけないんだから、
増えなくても増えましたとか増やしたふりをするとか、口では「はい、はい」と言いながら実際はやらないとか、適当に手抜きをしないと回らない世界なんだ。

日本共産中央委員会に勤務する熱心な日本共産党員だから赤旗をばんばん増やせるかというと、そんなことはないわけで、みんな増やせなくて困っている。

けれど、日本共産党本部の人間が赤旗の拡張をやっていないということになると具合が悪いので、・・・・

みんなで「頭がおかしいんじゃないか」と言って、追い出すための口実に使ったんじゃないかな。で、代々木病院はどうでした?

 


■自宅療養なのに、人手不足で赤旗配達■

安東親範=病院では医師に「自分は無理やり連れてこられたんだ」と散々言いましたから、
そのときから嫌われました(笑い)。

脳のCTスキャンと脳波の検査をされました。


●結果は勿論正常でして、医師も「あなたは正常です」と言いましたが、
同時に「ただ病名をつけなければ法律上(今後)精神科に通院することはできないので、病名はつけます」と、納得してくれという感じで言われました。


病名は何とつけられたのか覚えてないんですが、ハイペリドールという薬を出されて、3ヵ月間の自宅療養の指示を出されました。

自宅療養だというのに赤旗の早朝配達の人が足りないからといって、配達はやらされました。
医師からは2週間に一度来るように言われたんですが、1ヵ月に一度行ったり2ヵ月に一度だったりしてしてました。

この間、医師も代わり、「シルピリド100」とか「アキネトン」とかいう薬をもらいました。

病院に行くと、事務室の電話が結構聞こえて日本共産党から電話がかかってきたり、
待合室というか廊下に日本共産党の人間がいて

●「安東親範は精神分裂病と認定して入院させろ」と言ったりしているのが聞こえました。

とにかく、最初に精神科に連れて行かれたことですごく気落ちしてしまって、
その後は日本共産党の専従はやめましたが、
親元の杉並に戻ってまた民青に再加盟して活動はしてました。

しかし、杉並でも、一緒に活動していた人に中野での体験を話したら

●「あなたは重度の精神病だから代々木病院に入院しなさい」と言われて、またもショックを受けました。

日本共産党は嘘をつかない政党だとか、民主主義の権化だとか、日本共産党は正しくて倫理的にも道徳的にも最も権威のある正当だと信じ切っていましたから。


それで日本共産党とも民青とも関係のない友達に代々木病院行きの話をしたら
「共産党なんか止めた方がいい」と言われました。


1991(平成3)年に離党しました。・・・・

 

兵本達吉=私も最初は忙しいとか今日は都合が悪いとか言って逃げ回っておったんだけど、国会の(日本共産党の)事務局長から自宅に早朝電話がかかってきて「今日は他の仕事をさておいてまず
●代々木病院に行って精神鑑定を受けろ」と厳命が来たんですよ。


それまでに秘書仲間に相談したら
「そういう屈辱的なことに耐えるよりは、さっさと退職するなり離党するなりしろ」と言う人と、
「受けておいて、後で『精神鑑定をやられた』と宣伝してやったらどうだ」と言う人と半々で、
私は後者の道を選び、代々木病院に行ったんです。

代々木病院精神科の廊下の待合室に座っていたら、顔見知りの医師が通りかかって「今日は何ですか?」と聞くから「先生に診てもらいに来ました」と話したら、ニヤッと笑って部屋の中に入った。


しばらくして彼がまた顔を出して「兵本達吉、何ですか?」とまた言うので
「代々木病院精神鑑定を受けてこいと言われたので来ました」と答えると、真顔になって「じゃ入って」ということで順番をとばして中へ入ったわけ。・・・・・

 
安東親範=世界中で共産党は純粋な共産主義者、ピュア・コミュニストの追い出しをやっています。
私も結局、離党したわけなんです。

その後、私が「日本共産党には”強制収容所”があって、日本共産党の言うことを行かない人間を代々木病院精神科に連れて行っている」という批判をしたり日本共産党の医療戦略に関する研究を始めたことと関係があると思うのですが、


現在に至るまで私の職場に押しかけたり、外出先まで私を追い回したりして邪魔、嫌がらせをする人間がいるんです。

私は昔、映画やドラマのエキストラをやっていましたが、職場にやってきて同僚に
「安東親範を雇うとこんな目にあうんだぞ」と脅しめいたことを言ったこともあります。

1999年12月には都議会を傍聴に行ったのですが、眼鏡をかけた小太りの女性がいて、おかしな話ですが、都議会事務所に私の名前を出して中傷されました。

年がら年中のこのような行動に、裏切られたという思いを通りこして共産主義を心から憎むようになりました。

 

兵本達吉=党と衝突を起こして離れた人間が反党活動をやっていないかを監視するということはやっていると思いますよ。日本共産幹部会調査室というところでね。

私の場合も代々木病院精神鑑定を受けた後、それで無罪放免になったわけではなく、
●自己批判書を書かされました。

「書かなかったら日本共産党にいられなくするぞ」みたいなことを言われてね。

職場の同僚が心配して「偉大な宮本顕治議長に対して本当にとんでもない誤りを犯しました」といったことを私に変わって書いてくれたんだけど、自分で添削して国会担当の事務局長のところに持っていったら、私が書き直したところを全部具合が悪いと指導され、勝手に書き直されましたよ。




代々木病院精神科の戦略意義:
■精神医療を懲罰に乱用■

司会−これまでのお話から察すると、お二人以外にも強制的に精神鑑定を受けさせられた似つ本共産党員はいるんでしょうねえ。

 

兵本達吉=私を診た医師が言っていました、兵本達吉、あんただけじゃないんだと、日本共産党の機構の上から下までどんどん送り込まれてくるよと。

日本共産党活動の矛盾が代々木病院精神科医に持ち込まれて本当に困るんだ
と嘆いていました。

日本共産党は年がら年中赤旗の拡張運動をやってますが、絶えず上からノルマのように何月何日まで何部増やせと指示を打ってくる。

ところが、年中だから下部の党員は動かない。

ある県の機関紙拡大を担当している機関紙部長が上と下の板挟みになってノイローゼ気味になったんでしょうねえ。

「こんな拡大の方針はおかしい」と発言した。

そしたら
●「お前、ちょっと代々木病院精神科へ行け」と言われて、来たケースがあったそうですわ。

「こんなもの精神病ですか?
誰でも(陰では)言ってることだわ」と医師は言ってましたよ。


こういうふうに日本共産党の方針に反対する人、異論を唱える人、異分子と目された人を「あいつは頭がおかしい」と扱って
●代々木病院の精神科へ送り込むというのは、
精神科、精神病院を日本共産党員のイデオロギーをコントロールする一つの手段として、あるいは懲罰機構として利用しているわけで、けしからん話だと思う。

それで全国から患者が来ると言うんだ。

中には日本共産党生活とか日本共産党活動の矛盾に悩んで本当に精神状態がおかしくなった人もいるんじゃないかとは思いますが、大半はカッコ付きの患者、政治的な患者だよ。


代々木病院精神科の治療というのは問診が中心なんです。
その内容で正常かおかしいかの判断をするわけですね。
だから医師は患者に日常生活とか職場の様子とか仕事ぶりとか質問しますよね。

ということは、日本共産党からすれば普通の病院に行かせると、日本共産党員というのは日常的にこういうことをやっているんだという情報が外部に出てしまうことになる。

だから、
日本共産党系の民主医療機関、民医連と言うんですけど、そこの精神科に連れて行くのは日本共産党活動の内容が外部に漏れるのを防ぐためなんです。
正常な人間に精神科に行けというのは屈辱を与えるというか、ものすごいプレッシャーを与えることになるんです。

私と似たような目にあった人の話を聞いたことがありますが、
代々木病院に向かうときに吐き気がする。
代々木病院に近づけば近づくほど頭がズキンズキンと痛くなる。

それで今日はもう
代々木病院に行くのをやめようとクルッと引き返すと、吐き気も頭痛もスッと治るという。
精神的に非常に苦痛を与えるんですよ。
もうひとつは代々木病院精神科に行けと言われたことが恥ずかしい。
自分は後ろめたいことはないんだけれども、しかし、本人にはいやな思い出だし、社会的に明るみに出したくないという心境になる。

さらに私のように大学生のころから日本共産党員で何十年も日本共産党活動をやった人間にとっては周りの人間はみんな日本共産党員だし、色々な人間関係が築かれている。
そういう人間がそこからパッと飛び出したり、発言したりすることは大変なことなんだ。
しかも日本共産党と世間に知られている人間が再就職するたって大変なんですよ。

だから、泣き寝入りするしかない。


●この”代々木病院収容所”の問題が余り世間に知られていない理由はいま言ったことが複雑に絡んでいるからだと思いますよ。

それでも日本の場合は日本共産党の外に自由な社会があるわけで、精神鑑定を強要されたら警察に駆け込むこともできる。

しかし、共産主義国家のように国全体がこういう体制、システムで覆われて逃げる場所がないとなると、これは本当に恐ろしいことですよ。

その辺のことは、安東親範、詳しいんじゃないですか?

 

 


■証人喚問で実態を解明すべき■

安東親範=私は日本共産党をやめた時点から、日本共産党には”強制収容所”があって、日本共産党の言うことをきかない人間を代々木病院の精神科に連れて行っている、それは共産主義に共通しているんじゃないかということを研究し、公然と主張もしています。


ソ連、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、東ドイツ、アンゴラ、ユーゴスラビア、キューバ、どこの共産主義国でも精神医療が乱用されていることが学者の研究やアムネスティの発表で明らかになっていますね。


中国や北朝鮮では精神病院に連れていく前に抹殺されることが多いようですが、やはり中国の反体制の批判者が精神病院に連れて行かれるから助けてくれという手紙を出したということがアムネスティの記録に残っています。




●日本共産党が反体制派や意見を異にする者を精神病と認定する理由は、

まずそういうレッテル貼りをすることによって、
彼らの主張が一般国民から相手にされなくすること。

私の場合でも、私が何か言っても日本共産党は、
「あれは代々木病院で精神病と診断された人間の言うことだ。聞かなくていい」と言えるわけです。

精神病院に閉じ込めることで彼らを沈黙させることができるのも理由の一つです。
彼らを逮捕すると、法廷で何をしゃべるか分からない危険があります。

ソ連の場合ですが、病院に入れる方が裁判にかけるより費用がかからないという学者の研究が出ています。

日本共産党は選挙ポスターで「人権を守る共産党」なんて謳っていますが、『収容所列島』でソ連の強制収容所の実態を描き出し、ノーベル文学賞を受賞したソルジェニーツィンにどういう態度をとったか。


「ソルジェニーツィンはおかしい」
「ソルジェニーツィンの社会主義論は社会主義を歪めている」と批判し、
彼を弾圧したソ連共産党は内政干渉になるという理由で全く批判していない。

そういう日本共産党がどうして人権を語れるのかと思いますね。


●日本共産党系の民医連傘下には今、
千以上の病院・診療所があり、独特の綱領を持っています。

●同じく新日本医師会は独特の宣言を持っている。

それらを読むと、「アメリカ帝国主義に反対する」だとか「日本独占資本主義に反対する闘争の中で生まれた伝統を受け継いでいる」だとか言っています。・・・・

 

兵本達吉=結局ね、日本共産党というのは査問をやったり、統制委員会にかけたり、自己批判書を書かせたりすることでイデオロギーをコントロールしていかないことには全体を維持できない性格を持っていると思うんですよ。

この間、現在は米国席の呉弘達という人権活動家が来日しまして、私も30分ほど話しましたが、中国でも党の言うことを聞かない人間は精神病院に放り込んでしまうとはっきり言っていました。

天安門事件に参加した北京大学の学生のなんかでも精神病院に入れられていると。

だから僕は共産主義というものの有機的な一部分だと思う。




日本共産党の場合は微弱な政党だけれども、これが大きな政党に成長していけば、こういう懲罰システムも大きく成長していく。これは決して軽く考えていいことじゃない。

重大な問題として捉えてほしい。

先ほどの安東親範の話を継いで言うと、日本の精神医学界は、民医連系の精神科で本来の精神医療からは邪道な治療行為が行われていないか、調査してほしいと思いますね。

極端なケースについては人権擁護局なんかも立ち入り調査すべきだと思います。

もう一つ、いままで申し上げたようなケースについて、精神医療の問題として捉えるのであれば、国会でいえば厚生委員会、人権問題として捉えるのであれば法務委員会あたりで、例えば代々木病院の医師たちを証人喚問して調べるべきだと思います。

 

安東親範=同感です。

怖いのは、ソ連共産党の医師を引き合いに出して言えば、彼らは反体制の人間を心底から病人だと思いこんで疑わないらしいですね。
彼らの理論では他の人間と違う人間は病気だということになる。

 

兵本達吉=実態を解明すべきですよ。

こういうことを平然とやっている政党が大手を振って闊歩しておるということは由々しいことで、国会証人喚問。

日本共産党は何かあるとすぐ「国会に呼べ」「証人喚問しろ」と要求する党だから(笑い)、いっぺん、医師を国会に呼んでいただいて、みんなから質問してもらったらいいんじゃないかと私、思いますね。



ーーーー−−−−−ーーーーーーーーーーーー



月刊誌「正論」4月号が、上記の告発対談を掲載したところ、
早速「しんぶん赤旗」3日付で、
「雑誌『正論』4月号の『告発対談』について」と題して批判を行っています。

「しんぶん赤旗」での主張は以下のとおり事実を歪曲した反論でした。

?「しんぶん赤旗」の文中では、

「兵本達吉は、1990年、『東欧情勢にショックを受け、夜も眠れず、心理的パニック状態になった』とのべ、みずから希望して医師の診察を受けたことがあります」

と兵本達吉が自主的に精神医にかかったと述べています。

 


?「しんぶん赤旗」の文中では

「だいたい『日本共産党の“収容所列島”』などありようはずもありません。

現に兵本達吉も対談者も、“強制収容”どころか、好きなところへ出ていってしゃべりまくっているではありませんか」と批判しています。


ーーーーーーーーーーーーー


大須田勉

当時日本共産党都議=福井典子の万引き事件を代々木病院精神科で隔離して正当化・強制収容所

$
0
0


日本共産党・代々木病院精神科部長=中沢正夫と言うセレブ大幹部

「福祉倶楽部」主催の福井典子は、日本共産党の万引き都議事件=1991事件」



■東京勤労者医療会 代々木病院
住所=〒151-8556=東京都渋谷区千駄ヶ谷1−30−7
電話=03-3404-7661(代表):FAX=03-3404-7456
●病床数=150床
150床(回復期リハビリ病棟49床、人間ドック3床)、透析ベッド35床
●診療科目
精神科・
内科・循環器科・消化器科・呼吸器科・リハビリテーション科
・外科・神経科・整形外科・眼科・皮膚科・婦人科・麻酔科・泌尿器科



■なぜ、万引き程度でこれほど、20年も経っているのに、
2010年の今も、ネット話題の題材になるのか?
それは、
日本共産党=代々木病院=思想の押し潰し強制収容所、に
のり、暗黒の闇病院に逃げ切りようとした福井典子の行動にある。
代々木病院に行かなければ、これほどの話題にならなかった。




↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

★1991年平成3年6月10日11時すぎに、
日本共産党の福井典子都議(当時)
が新宿西口の百貨店で、2万3千円相当の万引きをしました。

大手各新聞社とも、
「福井典子もつい魔がさしてやったと認めている」と報道し、


渋谷区選出の日本共産党元都議会議員=福井典子は
新宿の小田急デパートで ネックレスを万引き
警察では、「魔が差してしまった」と供述

しかし
日本共産党は、「てんかんの発作」によるもの として、
犯罪性を否定。日本てんかん協会の会長のコメントを紹介しながら
福井典子の「万引き」を正当化した。

その福井典子は、都議を引退、日本共産党都委員会の勤務員となったが
●「福祉倶倶楽部」を主催。自分の犯歴を隠しながら、全国各地を講演している。

福井典子は1993年4月渋谷区初台に高齢者、障害者の福祉の向上目指して
「福祉倶楽部」を発足させ、地域の拠点として活動し、介護保険制度が成立してからは制度の問題点や改善の方向などを各地で講演やシンポジュームを主催するなど運動の先頭になって奮闘されています。


当時の新聞も「赤旗」以外つまり一般の商業新聞は
当時の現職都議会議員の福井典子が小田急デパートで万引きして、
福井典子本人もデパートの警備員および警察署に罪を自供した。
犯意を認め、反省しているために即日釈放された。

ただ、その釈放のために、
日本共産党茶川克己都議(当時)が新宿警察に根回ししたという話もあり。
茶川克己都議は、都議の肩書きを利用し、
駐車違反のモミ消しに関与したことで、
日本共産党中央委員会から査問を受けている。


「デパート側も理解を示し、告訴していない」
したがって、いったんは取り押さえ、警察に通報され、「逮捕(ここは記憶が不十分)」も、
その後、「万引き」としては状況が違いすぎる(隠そうともしないでレジを通過)こと、
諸事情(家庭の問題で精神的に追い詰められていたこと、
いわゆる「癲癇」の症状がみられたこと)が明らかになったことで、
デパート側も告発しないこととなった。


てんかん(癲癇、Epilepsy)


日本共産党も当初厳しい対応を想定していたが、事態の推移の中で、適切な対応をとった。
赤旗は当時、もし事実なら福井典子に然るべき措置をとるという厳しさを打ち出していた。




福井典子は辞職願いを出したのです。が、
恐ろしいのは、1991年6月14日の赤旗の記事のほうです。
ここに引用してみましょう。


↓赤旗記事↓
●『常識では到底考えられない事態であり、私たちも大変びっくりしました。
心身の健康状態とも関係があるのではないかと憂慮して、福井典子本人
の同意も得て、福井典子前都議に医師の診断を受けてもらいました。

その 結果、
脳波に顕著な異常が見られることがわかりました。
脳波の異常 について、代々木病院(民医連系)の精神科医に他の病院の専門家
(民医連系の)もくわわって合診を行っていただき、

”挿間性意識変 容”で当面入院加療を要すると診断されました。

・・・医師の意見では、体調をくずしたなかで、この症状が起こ り、
意識がもうろう状態に陥り、今回の異常な行為(万引き)となったもの
とみられるとのことでした。』




●週刊新潮は1991年6月27日号で
「さっそく、事件を”病気”のせいにして始 末をつけようというわけである。
診断結果まで発表された福井典子、
たち まち、共産党系の代々木病院に”隔離”されてしまった。」と報じま した。



●筑波大学の小田晋教授(精神病理学)は、
”挿間性意識変容”という病名は ないとした上で、
”挿間性朦朧状態”というのはあるが、

この場合でも、症状は前々から出ていなければおかしいので、
いきなり万引きをしてその 病気がわかるということは考えにくい、
と述べております。


さらに、ゼンボウ誌は、
「代々木病院は6階建ての本館と東館と呼ばれる4階建ての新館からなっている。
福井典子はここの6階の党幹部専用の” 隠し病棟”にいる。
普通なら日本共産党の都議会議員程度では入院できない場所 である。
そのため福井典子は、同じ病棟に入院している他の党幹部たちと接 触できない
ように特別の個室に軟禁状態にされ、入院させられているの である。
・・・福井典子のために代々木病院の精神科医に属する医師たちによって
”医師団”が編成されている。



●主治医は代々木病院の精神・神経科部長の”中沢正夫”で、
そのほかに同科員の小牟田、安東という2人の医師が加わっている。
さらに代々木病院の分院ともいうべき埼玉県三郷市の”みさと協立病院”
の精神科医・雪田慎二も顔を出している。このような大袈裟な”医師団”を
そろえたのは、福井典子が本当に精神に問題があっての行動だとマスコミに
宣伝するために意図的に集めたのではないか、との声もある」と伝えています。





1987年に『選択』に掲載された
「日本共産党・代々木病院−−公安ものぞけぬ文字どおりの聖域」では、
「(宮本顕治による)小畑達夫リンチ殺人事件を出すまでもなく、
日本共産党に自己批判とリンチはつきものだが、あの病院(代々木病院)
は一貫してその後始末をしてきた。

日本共産党が代々木病院を持っていれば、事実が外部に漏れることはない。
警察の介入を防げるわけだ。
・・・やろうと思えばニセの死亡届だって書けるし、
入院させて”消したいCの場合”のようにうまい治療で殺すことだってできる」
という記事が載っています。

代々木病院の医師は、全員が日本共産党員で、履歴を厳しくチェックされ、
相互監視体制を身に付けさせられ、万一秘密をもらしたら家族ともども
社会的死が待っていることを教え込まれます。怖い話しではありませんか。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



■あるブログ記事のコピー■

福井典子高齢者集会で講演 >


2009年2月15日に開かれた「江東区高齢者集会」の分科会に
福祉倶楽部主宰の福井典子が助言者として江東区に来られました。
テーマは「人間らしく暮らしたい」。これには48名が参加。
福井典子の助言のもと大勢の人が発言、盛り上がりました。


以下、参加者の感想を紹介します。
草の根の活動の重要さを感じる分科会、助言でした。

・心配な事としては、将来のことが大きい。年金も払っているが、もらえる保証ははどこにもないし、どうなるか不透明だと思った。(20代女)

・今心配していることは、自分の将来。年金制度がまだ続いているのか、払う意味はあるのか、貯金のほうがいいのでは?ということ。また仕事も心配。自分は資格職なのでまだ就職先はのこっているが、まわりの同学年の人は転職もとても苦労しているし、安定した収入がないと、なかなか結婚にも踏み切れない。すると少子化にもつながってくる。少子化になり年金を払う人が少なくなり、高齢者が多くなれば、年金制度が崩壊しないわけがないと思う。(20代女)


・福井典子はとっても元気ですね。明日は必ずくるので、しっかり自分の分野を守り続けていきたいと思いました。(40代女)

・福井典子のお話をうかがいたいと思いながら、なかなか機会がありませんでしたが、とてもお元気で明るく、行動的で励まされました。私は、あと3年で定年になりますが、まだまだ住宅ローンが残っている上、年金、医療など老後の心配が切実です。公立の保育士ですが、高齢者に関わる問題だけでなく、保育の問題も取り上げてくださったことは嬉しく思いました。(50代女)

・順番に老いを迎えていくので、沢山の今回の方の発言を聞き、とても勉強になりました。(50代女)

・年金、介護問題話題が多く、本当にみんなの力を結集することが大事だと思いました。助言者・福井典子の力強い元気な話が印象的でした。(60代女)

・短い時間でしたが、どの話も身につまされました。まとめの先生の話は、NPOの運動を進める上で、とっても参考になりました。実践します。(60代女)

・福井典子の実践にもとづいた元気な話、すごいですね。具体的な要求を皆で力を合わせて行政へもっていくことの大切さ、よく分かりました。(60代女)

・高齢者社会が進んでいるのに、問題が山積み。例えば「後期高齢者医療制度」「介護保険制度」どの問題をとっても、お話を聞いているだけで、暗く落ち込みます。おかしいなと感じたら、行動すること、この言葉で一歩一歩進むことだと強く思いました。(60代女)

・福井典子の話はメリハリがはっきりしていて、とてもわかりやすく学びました。今、一番の心配は、健康と医療費です。このところ、医療費の出費が重なり、これがますます増えたらと思うと大変心配です。ヨーロッパや訪ねたことのあるキューバのような社会保障、医療費無料になったら、どんなに安心して老後がくらせるかと思います。(70代女)

・とても有意義な文化会であった。特に年金問題が参考になった。(70代男)

・さまざまな立場、環境の人たちがいるものだと感じた。(70代男)

・病院や老人ホームに、医師、看護師、介護職が沢山いて、報酬も充分にあるようにして欲しい。(70代女)

・ヘルパーの質を高めていくことは、公的な分野で育ててから地域に出してほしい。人間としての心配りを必要とすることを忘れてはいけない。(70代女)

・福井典子の話にはとても励まされました。もう年をとったら何もできないという気持ちを捨てて、健康に充分気をつけてがんばりたいと思いました。(80代女)



■・”福井典子とは都議会議員の時代”から講義をきいています。■

お話はたいへんよかったです。参加されたみなさんから色々なお話が出されて、よい分科会だったと思います。(80代女)


ーーーーーーーーーーーーーーー


福井典子の履歴書は、

1993 年に高齢者・障害者の相談・よりどころ「福祉倶楽部」を開設し、
主宰として活動を続けてこられました。

また、
福井典子の娘が重い障害をもち、
福井典子自身もてんかん患者であることから、
?日本障害者協議会(JD)理事や
?日本てんかん協会の理事として、
障害者自立支援法反対の運動の先頭に立ち、
さらに最近は、“おばあちゃんの原宿”東京・巣鴨のとげぬき地蔵でのユニークな街頭活動など、高齢者運動も精力的に展開。
?渋谷区社会保障推進協議会会長、
?東京社会保障推進協議会副会長としても、
社会保障運動に取り組んでおられます。

?月刊誌「福祉のひろば」全国編集委員も務め、
分野を超えて幅広く、草の根からの福祉活動・福祉運動を進める福井典子。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



月刊正論の「【対談】日本共産党の“収容所列島” 」を読みとると、
次のような内容になっている。対談は、

「元日本共産党国会議員秘書・兵本達吉、
元民青中野地区委員会副委員長・安東親範、
司会/産経新聞政治部次長・関田伸雄 」。


●日本共産党系の医療機関団体「全日本民主医療機関連合会(民医連)」の総本山とも言える東京の代々木病院が、日本共産党内反対派の精神鑑定所に使われていると云う。日本共産党や最高指導者への批判者や異分子が送り込まれ、「精神病患者」のレッテルを貼って葬り去る手段として利用されている形跡が認められると云う。その様は、「世界の共産主義諸国において人権弾圧の中心的役割を果たした
強制収容所(ラーゲリ)」、「ソルジェニーツインが描いた゛収容所列島″の日本版」と云う。


対談の二人は、強制的に代々木病院精神科で精神鑑定を受けさせられた経緯の持主で、
後に告発している結果的に告発仲間という関係にある。


兵本達吉の証言は以下の通り。
浜本達吉は、1990(平成2)年の年賀状に
「宮本顕治独裁三十年」と書いたことが問題にされた。

それは、前年末のルーマニアのチャウシェスク大統領夫妻逮捕銃殺事件が関係していた。
日本共産党はそれまでチャウシェスクを「東欧の自主独立の政策を進めている人物であり、国内的には社会主義国家の建設を順調にやっている」と称え、「ルーマニア人民の英雄である」と天まで持ち上げていた。あるいは、
宮本顕治委員長はソ連を訪問してブレジネフと共同声明を発表して世界平和を謳い上げた声明発表のわずか三日後にソ連はアフガンに軍事侵入したことも関係していた。
日本共産党中央は、これらに政治責任を露ほどもみせなかった。これが、
「宮本顕治独裁三十年」の背景であった。


兵本達吉は、年明けで国会(参院議員会館)へ出勤したら、
日本共産党本部の書記局から年賀状問題を詰問された。ここで、貴重な証言が為されている。
「書記局長や国対委員長の決裁で決まった国会の代表質問の原稿が宮本顕治の鶴の一声で正反対の内容に書き換えさせられたこともたびたびあった」。


兵本達吉は、一応形だけ始末書を書いたが、「精神鑑定を受けろ」ということになり、いろいろ理由をつけて逃げ回っていたところ、日本共産党の国会の事務局長から自宅に早朝電話がかかってきて「今日はほかの仕事をさておいてまず代々木病院に行って精神鑑定を受けろ」と厳命がきて、代々木病院精神科に診察に向かうことになった。

ところが、担当医が同情的で「頭脳明晰、意識明澄」という診断書を書いてくれた。精神鑑定を受けた後、自己批判書をかかされた。兵本達吉の受けた心の傷は大きかった。後に離党し、「日本共産党には゛強制収容所″があって、

日本共産党の言うことをきかない人間を代々木病院精神科に連れて行っている」と告発側に廻ることになった。しかし、「現在に至るまで私の職場に押しかけたり、外出先まで私を追い回したりして邪魔、いやがらせをする人間がいるんです」、
「日本共産党と衝突を起こして離れた人間が反党活動をやっていないかを監視するということはやっていると思いますよ。日本共産党幹部会調査室というところでね」と告発している。


浜本達吉はこうも述べている。
概要「私を診た医師の言によると、二人以外にも強制的に精神鑑定を受けさせられた日本共産党員はいる、日本共産党の機構の上から下までどんどん送り込まれてきている、日本共産党活動の矛盾が精神科医に持ち込まれて本当に困るんだと嘆いていた。日本共産党の方針に反対する人、異論を唱える人、異分子と目された人を代々木病院の精神科へ送り込んでいる。精神科、精神病院を日本共産党員のイデオロギーをコントロールする一つの手段として、あるいは懲罰機構として利用している」。



もう一人の告発人・安東親範は次のように述べている。
「私は日本共産党をやめた時点から、日本共産党には゛強制収容所″があって、日本共産党の言うことをきかない人間を代々木病院の精神科に連れて行っている、それは共産主義に共通しているんじゃないかということを研究し、公然と主張もしています。ソ連、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、東ドイツ、アンゴラ、ユーゴスラビア、キューバ、どこの共産主義国でも精神医療が乱用されていることが学者の研究やアムネスティの発表で明らかになっていますね。中国や北朝鮮では精神病院に連れて行く前に抹殺されることが多いようですが、やはり中国の反体制の批判者が精神病院に連れて行かれるから助けてくれという手紙を出したということがアムネスティの記録に残っています。

日本共産党は選挙のポスターで「人権を守る共産党」なんて謳っていますが、『収容所列島』でソ連の強制収容所の実態を描き出し、ノーベル文学賞を受賞したソルジェニーツィンにどういう態度をとったか。ソルジェニーツィンの社会主義論は社会主義を歪めていると批判し、彼を弾圧したソ連共産党は内政干渉になるという理由でまったく批判していない。そういう日本共産党がどうして人権を語れるのかと思いますね」。


この「【対談】日本共産党の“収容所列島” 」に注目するのは、
兵本達吉が、「国会担当(政策秘書)として「田中金脈事件」「ロッキード事件」「ゼネコン疑惑」など日本共産党の金権腐敗事件追及委員会や法務委員会を担当」していたからである。兵本達吉の「田中金脈事件」「ロッキード事件」「ゼネコン疑惑」追求の舞台裏を知りたい。

この観点から聞くと、「書記局長や国対委員長の決裁で決まった国会の代表質問の原稿が宮本顕治の鶴の一声で正反対の内容に書き換えさせられたこともたびたびあった」証言。



●「代々木病院精神科問題」は日本共産党内反中央派叩きの為に使われているのは無論として、長い宮本顕治―不破哲三系日本共産党指導の反作用で実際に相当数の心身症患者が輩出している。


ーーーーーーーーーーーーー


?宮本顕治=
生年月日=1908年10月17日
出生地=山口県光市
没年月日=2007年7月18日(満98歳没)
死没地=東京都渋谷区
出身校=東京帝国大学(現・東京大学)
称号=日本共産党50年党員
日本共産党名誉役員
親族=長男・宮本太郎
配偶者=初婚・宮本百合子(1951年死別)
再婚=宮本寿恵子




?“不破哲三”はペンネームで本名は
上田建二郎(うえだ けんじろう)
生年月日=1930年1月26日(80歳)〜まだ死んでない。
出生地=東京都中野区
出身校=東京大学
現職=日本共産党社会科学研究所長
称号=日本共産党名誉役員
日本共産党50年党員
親族=父=上田庄三郎
兄=上田耕一郎



?野坂参三=
生年月日=1892年3月30日
出生地=山口県萩市
没年月日=1993年11月14日(満101歳没)
出身校=慶應義塾大学
所属政党=(英国共産党→日本共産党→中国共産党→日本共産党
配偶者=妻・野坂龍



?志位和夫委員長=
生年月日=1954年7月29日(56歳)〜まだ死んでない。
出身地=千葉県四街道市
出身校=東京大学工学部物理工学科
学位・資格 工学士
前職 政党職員
所属委員会 国家基本政策委員会委員
世襲 無
選出選挙区 比例南関東ブロック
当選回数 6回
所属党派 日本共産党
党役職 中央委員会幹部会委員長
会館部屋番号 衆・第1議員会館735号室






日本共産党の赤い貴族は、
日本共産党年金と言う優雅な生活が保証されているので、
しぶとく長が〜く生きる。

野坂参三=101歳死亡
宮本顕治=98歳死亡
不破哲三=上田建二郎=100歳はいけると思う
志位和夫=も引退後も100歳バンザイだろう

おいしい夕張メロンとか、一切れ牛肉=10万円とか、
北朝鮮の金一族=まん丸顔の様に、栄養豊かの、
日本共産党幹部の赤い貴族生活で、
生きるて、こんなに幸せ。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

大須田勉

絶滅危惧種=日本共産党;赤旗2014年4月≒推定77万部、2015年4月≒推定52万部 ⇒廃刊

$
0
0

沈み行く赤旗カンバン、、廃刊への止まらぬ道



絶滅危惧種=日本共産党;赤旗2014年4月≒推定77万部、2015年4月≒推定52万部
(2011年4現在=132万部)


しんぶん赤旗の部数の推移を見てみよう。

2006/1=164万部 (24回党大会時、2006年1月)
2010/1=145万部 (25回党大会時、2010年1月)
2011/4=132万部 (最新データ、2011年4月)

●2011年4月末の赤旗販売部数は、
?日刊紙24万部、(月購読料2900円)
?日曜版108万部の(月購読料800円)
計132万部と見られる。

?=2900円×24万部=6憶9600万円
?=800円×108万部=8億6400万円
総計=?+?=15憶6000万円/1ヶ月


おおむね年5万部ペースの減少が、2010年から年10万部減のペースになっている。

減数?=164−145=19万部/4年間=5万部/1年間
減数?=145−132=13万部/1.25年=10万部/1年間

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

第26回党大会時の2013年1月時代では、、、
第27回党大会時の2016年1月時代では

< 未来推定 >
赤旗2014年4月≒推定77万部 ⇒ 赤旗日刊紙=廃刊、日曜版のみ刊行
赤旗2015年4月≒推定52万部 ⇒ 赤旗日曜版=廃刊、赤旗不定期タブロイド版のみ

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

生物の絶滅危惧種の絶滅曲線式;

2006年1月=A=164万頭
2007年1月=B=A×(1−kp)
2008年1月=C=B×(1−2kp)
2009年1月=D=C×(1−3kp)
2010年1月=E=D×(1−4kp)=145万頭

2011年4月=F=E×(1−5kpα)=132万頭

これにより、、、
p=???を求める。
k=???=赤旗特性係数を推定する=その生物の社会環境での絶滅評価

計算労働過程ははぶく、、
p=0.012=1.2%
k=1.1=社会環境の不適応による、急下降評価(1<k)

赤旗生物種のk=一定にして=計算が面倒なので、、

r=kp=0,0132=1.32%=赤旗生物種の絶滅減数率


ーーーーーー

2006年1月=A=164万頭
2007年1月=B=A×(1−kp)=164×(1−0.0132)=161.84
2008年1月=C=B×(1−2kp)=161.84(1−0.0264)=157.57
2009年1月=D=C×(1−3kp)=157.57(1−0.0396)=151.33
2010年1月=E=D×(1−4kp)=145万頭⇒151.33(1−0.0528)=143.34万 ⇔ 実数値=145万頭


2011年1月=F=E×(1−5kp)=143.34(1−0.066)=133.88
2012年1月=G=F×(1−6kp)=133.88(1−0.0792)=123.28


●2011年4月計算する。(2011年4月実際値=132万部)

1年=12ヶ月、、、、、、1月〜4月=3ヶ月、、、

p=年金利=年利息の様なもの
R=月金利=月利息の様なもの 6kp=0.0792

(1−R)^12=(1−R)の12乗=1−0.0792 を解く。と、、


R=0.007  ⇒ (1−R)^12=(1−0.007)^12=0.9192=1−0.0808

で、ほぼ一致、、、0,0792 と 0.0808 はほぼ一致。

2011年4月=f〜g=133.88×(1−R)^3=133.88(1−0.007)^3=131.1万頭

実測数=132万部 と 計算値=131.1万部 ほぼ一致。

< 結 論 >

この2006年1月〜2010年1月〜2011年4月、、までの5年間3ヶ月で、、
一貫して、(1−kp×n)式 で計算した。n=1,2,3,4,5、

それで、かなりほぼ、実数値と計算値が一致しているので、

絶滅危惧種=日本共産党=赤旗生物種、の計算式は、
やや妥当とする。

では、未来予想推定計算する。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■

2010年1月=145万部
2011年4月=132万部

この期間=1年3ヶ月=15ヶ月

145×(1−R)^15=132   を解く。と、

R=0.0062=月利息の様なもの、と求まる。

1−p=(1−R)^12=(1−0.0062)^12=0.92808≒1−0.072


よって、
2011年4月より、
p=年利息=0.072=7.2%
k=1.1  とする。

赤旗日刊紙は2011年9月より500円値上げ決定(2900円⇒3400円)。
?値上げによる日刊紙解約読者
?値上げによる日刊紙(3400円) ⇒ 日曜版(800円)への転換する読者。

k=1.1  は妥当な倍率。

よって、、
kp=1.1×0.072=0.0792≒0.08
を未来推定:絶滅危惧種赤旗減数率=0.08
として、使う。

ーーーーーーーーーーーー

kp=0.08=絶滅危惧種年減数率=8%

2011年4月=132万部
2012年4月=132×(1−kp)=132×0.92=121.4
2013年4月=121.4×(1−2kp)=121.4×0.84=102
2014年4月=102×(1−3kp)=102×0.76=77.5
2015年4月=77.5×(1−4kp)=77.5×0.68=52.7万部

と未来推定した。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
■■■■■■■■■■■■■■■■■■


赤旗側も2011年7月5日付の紙面で、
「発行経費を差し引いた日刊紙の赤字は、
今年に入って月2億円になりました」と、
その寂しい内情を淡々と述べている。



2011年4月現在=132万部=24+108=132
日刊紙=24万部(購読料=2900円)
日曜版=108万部(購読料=800円)

日刊紙=2900円×24万部=6憶9600万円/1ヶ月
日曜版=800円×108万部=8憶6400万円/1ヶ月


日刊紙のコスト=7憶円(収入)+2億円(赤字)=9億円/1ヶ月
この赤字2億円は日曜版の利益より補填。

■日刊紙赤字=2億円/24万部=833円
単純には、赤字値上げ額=800円
よって、2900+800=3700円(月購読料)
であるべきだが、、、、


今回の価格改定は以下のようになる。
日刊紙 :2900円→3400円
1部売り:100円→120円
(いずれも消費税込み、2011年9月1日から)

<日刊紙だけで赤字は月2億円>

そこで、足りない赤字部分=300円(800-500=300)は??


ーーーーーーーーー

「2011年7月5日付の赤旗は、
今後の黒字化戦略についてこのように語る。
この料金改定によって26万部で採算がとれることになります。
現在の24万部から2万部以上前進させるならば、
日刊紙の発行を安定的な軌道にのせることができるようになります」


つまり、
日刊紙の読者を2万人獲得することがノルマ目標だというわけだ。


値上増加収入=24万部×500円=1憶2000万円
ノルマ2万部=3400円×2万部=6800万円
うまく行けば式=1憶2000万+6800万=1憶8800万円/1ヶ月

これで、
現在の日刊紙の月2憶円の赤字を消せるとの思惑???
2011年4月現在24万部(2900円) ⇒ ??万部(2011年9月値上げ3400円)


ーーーーーーーーーーーーーー


365/7=52.1回(1年間)
52,1/12=4.35回(1ヶ月)

日曜版=800円×12/52,1=184円(日曜版の1部の売価)
日刊紙=2900円×12/365=95円(日刊紙の1部の売価)
日刊紙=3400円×12/365=112円(日刊紙の1部の売価)2011/9より

日刊紙値上げ幅=112−95=17円

日刊紙赤字=2億円/1ヶ月より
2億円×12/24万部/365=27円=日刊紙1部あたりの赤字額


おそらく、
日曜版1部につき、利益=40円、だろう。

1ヶ月の日曜版の荒利益=40円×4,35×108万部=1憶9000万円


いままでの、
自転車操作で、日刊紙赤字2億円を何とか日曜版荒利で補填。


日刊紙値上げ後=3400円でも、まだ赤字??
それには、共産党は、2万部の日刊紙購読ノルマ獲得命令。

まず、ムリ難題、


■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ーーーーーーーーー

<JBプレス+α文章>


小林多喜二=共産党員

2008年の出来事の1つに蟹工船ブームがある。
プロレタリア文学に属する小説『蟹工船』の作者で、
官憲に虐殺された小林多喜二が共産党員であったことから、
蟹工船ブームと同時に日本共産党も注目された。



日本共産党によれば、
毎月1000人以上の入党者があり、そんな状態が20カ月続いたという。
このことは、当時マスコミで大々的に報道された。


2008年蟹ブーム現象!!
■推定予想増加数=1000人×20ヶ月=2万人党員増加数のはずが???
蟹新入党=2万人、、、のはずだが?

では、
現在の共産党員は何人いるのか。
党員数は2〜3年に1回開かれる党大会で明らかにされる
(25回党大会は2009年総選挙のため2010年に延期された)。



24回党大会(2006年1月)=党員数=40万4299人
25回党大会(2010年1月)=党員数=40万6000人

正味増加数=25回ー24回=40万6000−40万4299=+1701人

4年間の増減は「+1701人」。
「毎月1000人以上20ヶ月の入党者」があった割には、ほとんど増えていない。

赤い貴族で、将来党年金富豪で安泰の
志位和夫委員長の発表によると、
?この間に3万4000人の新入党員を迎えている反面、
?1万6347人の物故者(死亡者)が出ているという。
物故者(死亡者)のほとんどは高齢党員と見られるが、
それを差し引いても1万7653人党員は増えていなければならないはずだ。
しかし、1万5952人の離党者(除名、除籍者を含む)を出しているため、
党員増が約1700人にとどまっているのだ。



A=新入党数=34000人
B=死亡者数+離党数=16347+15952=32299人

正味増加数=AーB=34000−32299=+1701人

A=34000=蟹新入党+非蟹新入党=2万人+1万4千人



「共産党ブーム」など、マスコミが騒いだだけで、実際はなかったのである。


■破綻寸前の「赤旗ビジネス」■


それどころか、すでに
共産党は壊滅的な危機に瀕している。
財政が破綻寸前まで追い詰められているのだ。

●第1の原因は党員の高齢化である。
日本共産党の年間党費は年収の1%。
もし年収500万の党員なら、年間5万円だ。

日本共産党の年間党費=年収×(1/100)=年収1%消費税みたいな〜
所得の1%でなく、年収の1% ⇒ 外形標準課税と似ている
非課税世帯でも年収があれば、党費徴収する


しかし、
定年になり、収入が年金のみとなると、
党員の収入激減に比例して取れる党費も減る。


もともと共産党員は会社員として冷や飯を食わされてきた人が多いから、
厚生年金の支給額も低い。そのため年5万円の党費収入が1万円、
あるいはそれ以下に激減することになる。

その上、
高齢党員に代わる、収入が比較的多い大企業のサラリーマン層、
あるいは将来の財政を担う若い党員がほとんど確保できていない。

財政危機の
●第2の要因は、党の機関紙「しんぶん赤旗」の部数の減少である。
実はこれが最も大きな要因だと言ってよい。

もともと日本共産党は政党の中でも、
優秀な「ビジネスモデル」を持っていた政党として知られていた。

政党機関紙、しんぶん赤旗(日刊紙と日曜版がある)の販売で、
大きな収益を上げられたため、
法人からの政治献金がなくても十分な政党活動が可能だった。

現在も、
■政党助成金■を一切受け取っていない。

しかし、
このビジネスモデルが破綻寸前なのである。



しんぶん赤旗の部数の推移を見てみよう。

2006/1=164万部 (24回党大会時、2006年1月)
2010/1=145万部 (25回党大会時、2010年1月)
2011/4=132万部 (最新データ、2011年4月)

●2011年4月末の赤旗販売部数は、
?日刊紙24万部、
?日曜版108万部の
計132万部と見られる。

?=2900円×24万部=6憶9600万円
?=800円×108万部=8億6400万円
総計=?+?=15憶6000万円/1ヶ月


おおむね年5万部ペースの減少が、2010年から年10万部減のペースになっている。

減数?=164−145=19万部/4年間=5万部/1年間
減数?=145−132=13万部/1.25年=10万部/1年間

この指数関数的、放物線的激減から、、、


毎月の赤字に今や青息吐息
そうなった理由は、
党員と支持者の高齢化である。
月2900円の赤旗日刊紙を、会社員時代には買えても、
定年になり年金生活になると、それなりに大きな支出となる。

そうした人は日刊紙よりも安い月800円の「日曜版」に切り替えることが多いが、
日曜版はもともと共産党に興味を持ってくれる人たちの、
入門版的な位置づけで作られた新聞である。
党員や支持者になったら、
日曜版から日刊紙の赤旗にグレードアップしてもらわなければならないのだ。
ビジネスモデルが本末転倒しているのである

しかも、その日曜版ですら、
近年はなかなか購読してもらえない。
共産党中央委員会から赤旗の拡大を求められる下部機関は、
新規読者を獲得できずに苦しむ。
特に拡大を求められる大型選挙の前になると、

党員は窮余の策として以前購読していた読者を回る。
そして「選挙まででいいから」と説得し、
義理チョコで赤旗購読をお願いするのだ。
当然選挙が終わると、こうした「短期読者」は購読をやめる。


選挙ごとにこれを何度も繰り返せば、
いくら共産党に義理があると思っている人でも、いい加減いやになる。
そのため選挙前は購読停止者以上に短期読者を開拓し、部数は微増するが、
選挙が終わると短期読者がいっせいに購読を停止するため、
大減紙となる悪循環が続いている。


悪循環が続けば、当然財政は悪化する。

●2011年4月末の赤旗販売部数は、
?日刊紙24万部、
?日曜版108万部の
計132万部と見られる。

?=2900円×24万部=6憶9600万円
?=800円×108万部=8億6400万円
総計=?+?=15憶6000万円/1ヶ月



日曜版ではまだ利益を出しているが、日刊紙の方は慢性的に赤字である。


■2005年に出版された元日本共産党政策委員長・
筆坂秀世氏の著書『日本共産党』、によれば、
筆坂が離党する前の日刊紙の赤字は月1億円であったという。
それが今では毎月2億円を超える赤字を出しているのだ。

毎月の赤字の補填は、日曜版の利益を吹き飛ばしてもまだ足りない。
現在、共産党は所有する土地などの資産を切り売りしたり、
関連会社の貸付金を引き上げたりして政治資金報告書の数字を維持している。


日本共産党中央委員会は、
政治資金報告書に記載義務のある財政数字以外は、、、

■ひた隠しにしているため、
■現在どれだけの資産が残っているのかは不明である。


だが、余裕がなくなりつつあるのは確かだ。
すでに地方機関では、赤字に耐えかねて、
専従職員の「解雇」まで行われている。


共産党は選挙を乗り切れるのか
もちろん党内でも危機感は強い。
2013年の参議院選と都議会選を乗り切れるか。
年に2つの大型選挙をやれる財政的体力など、もはやない。
しかし、選挙は放棄できない。

崩壊を先送りにするには、
?赤字を垂れ流す日刊のしんぶん赤旗の発行停止と
?政党助成金の受け取りしかない。

しかし、
?歴史と伝統のある赤旗の発行停止はこれまで外部に隠してきた、
党の危機を世に知らしめることになる。
?政党助成金も、受け取る他党をさんざん批判してきたのだ。
今さら受け取れば、やはり財政危機を世間に公表することになる上に、
党員の誇りをも奪い取る。


想像してほしい。


これまで党員は、
■政党助成金を「『思想及び良心の自由』を踏みにじる憲法違反の制度」であり
「政党を堕落させる腐食源」とまで言ってきた。
そんな党が政党助成金をもらってしまえば、党員は支持者に合わせる顔がない。

そうなれば、
いくら党に忠実だった党員でも指導部の責任を追及するであろう。
日本共産党はこれまで党本部は常に正しいとして、
●いくら選挙で負け続けても指導部は責任を問われなかった。
それが初めて、
党指導部の責任を問われることになる可能性が極めて高い。

この恐怖感が、党の対応を遅らせている。
いや、対応がされないままにしていると言っても過言ではない。

今、我々国民は、
日本共産党史の最終章をリアルタイムで目撃しているのである。


■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■



日本共産党の機関紙である「しんぶん赤旗」。
最近でも九州電力による「やらせメール」事件を他紙に先駆けて報じるなど、
赤旗発のスクープも決して少なくない。

しかし、
共産党こそ、かつての「蟹工船ブーム」のおかげもあって、
党員を若干増やしつつも、赤旗の発行部数は右肩”下がり”。

赤旗側も2011年7月5日付の紙面で、
「発行経費を差し引いた日刊紙の赤字は、
今年に入って月2億円になりました」と、その寂しい内情を淡々と述べるほどだ。


2011年4月現在=132万部=24+108=132
日刊紙=24万部(購読料=2900円)
日曜版=108万部(購読料=800円)

日刊紙=2900円×24万部=6憶9600万円/1ヶ月
日曜版=800円×108万部=8憶6400万円/1ヶ月


日刊紙のコスト=7憶円(収入)+2億円(赤字)=9億円
この赤字2億円は日曜版の利益より補填。


2011年7月10日付の「赤旗」紙面からは、
その厳しい財政事情が浮かび上がってくる。


1面スペースの1/3を使って悲痛な値上げアピール


しんぶん赤旗読者への値上げアピールは紙面、
でもかなりのスペースを割いて展開されている。

1面のみならず、10面でも7月4日に開催された、
第3回中央委員会総会での日刊紙値上げ提案について、
「日刊紙の危機打開」と見出しをつけて大きく紹介。
赤旗は「たたかいに不可欠」、
たたかうための「武器」だと訴えている。

今回の価格改定は以下のようになる。
日刊紙 :2900円→3400円
1部売り:100円→120円
(いずれも消費税込み、2011年9月1日から)


日刊紙だけで赤字は2億円。


赤旗は7月5日付の紙面でも、
その苦しい経営難を包み隠さず詳細に読者に向けて発信しているが、
その内容はとてもヘビーだった。

それは同紙が、
「大企業などの広告による収入に依存している一般の新聞とは異なり」
と自称するほどにタブーを恐れないからのか、はたまた、
それだけ追い込まれている様子を表現しているだけなのか。
以下、その中身を見ていく。

赤旗は、
この10年余の間に36万人から、24万人余へと、
12万人弱もの日刊紙読者を減らしている。
これは日刊紙だけを見ると、単純計算で3億4000万円以上にも及ぶ収入減だ。

2001年4月=日刊紙=36万部
2011年4月=日刊紙=24万部
減収=?=12万部×2900円=3憶4800万円


同紙は
部数が減り、「売り上げ」が減るなかで、
発行経費を差し引いた日刊紙の赤字は、
今年(2011年)に入って月2億円になりました。
と伝える。


ただ、
しんぶん赤旗はこの日刊紙とは別に、
月800円の「日曜版」を発行している。
日刊紙の読者はすべてが赤旗の購読を止めたわけではなく、
この安い「日曜版」への乗り換えを行った読者が少なくないようだ。


共産党員や赤旗の読者は最近では高齢層や低所得者層に偏るとみられ、
所得の伸び悩みと高齢化の進展は、
月2900円の日刊紙購入の余力を奪っており、
日刊紙から日曜版への移行が進んでいる。


■日刊紙とは別の採算管理をしていた日曜版は、
これに伴って収益を上げているものの、
現在ではその収益も日刊紙の赤字の穴埋めに用いられている。

そして、
その赤字克服のために赤旗が打ち出した戦略が
今回の「月500円値上げ」であるわけだ。


7月5日付の赤旗は今後の黒字化戦略についてこのように語る。
この料金改定によって26万部で採算がとれることになります。
現在の24万から2万以上前進させるならば、
日刊紙の発行を安定的な軌道にのせることができるようになります。
つまり、日刊紙の読者を2万人獲得することが目標だというわけだ。

値上増加=24万部×500円=1憶2000万円
ノルマ2万部=3400円×2万部=6800万円
うまく行けば式=1憶2000万+6800万=1憶8800万円

これで、
現在の日刊紙の月2憶円の赤字を消せるとの思惑???
2011年4月現在24万部(2900円) ⇒ ??万部(2011年9月値上げ3400円)

そう簡単に、2万部は増える訳なし、


これは値上げに伴って予想される読者減、
そして新聞離れそのものと戦いながら進めるわけであるから、
その道のりがいかに険しいかを物語っている。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■

赤旗の赤字は共産党の政治力衰退に直結

■■■■■■■■■■■■■■■■■■


7月10日付の赤旗は10面の特集で、北海道委員長の
日刊紙の赤字が選挙中のビラの発行にまで負の影響を及ぼしている
という発言を紹介。
中央委員会総会でも、
赤旗の没落がすでに日本共産党の活動力低下に、
拍車をかけている現状が赤裸々に語られたようだ。

もちろん共産党の活動は日刊紙販売収入のみならず、
党員からの党費や募金収入によっても維持されている。
しかし、

党費収入はその納付率と実額で落ち、
募金収入は額は大きいものの恒常的でないなど、こちらも安定性に欠く。

ここ2年でも総選挙や都議会選挙など大きな支出を伴うイベントが続く。
景気も上向かない中で、同紙の訴えは「同志」にどう響くのだろうか。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■

専従給与を払わなくてもいい「地区役員」、
つまり他に仕事を持って所得を得ている者や、
年金生活者に地方機関を運営させようと日本共産党は画策


革命を夢見て、あるいは国民の苦難の軽減に貢献をしたい。
そんな考えで党に人生を懸けた、
地方の専従党員(専従給与を払わねばならない)たちを切り捨てていくことで、
日本共産党は延命を図ろうとしている。


■地方組織の現実の実態について、、、、、


日本共産党は
?中央委員会の下に
?都道府県委員会があり、その下にいくつかの
?「地区委員会」があり、その下に
?支部がある。

共産党は個人単位の後援会を持たないため、
政治団体としては地区委員会が最小単位となる。


■財政健全化を訴えるビラを配布:あるA地区委員会の行動;

日本でも有数の規模と強さを持つ日本共産党A地区委員会の出したビラがある。
このA地区委員会は、共産党が比較的強い都市部にあり、
しかも管轄地域に大規模団地を持つ。
大規模団地は、日本共産党にとって大票田だった地域だ。


集団就職などで地方から出てきた者たちが入居していた団地は、
地域のしがらみがなかったため、
自分たちの街を自分たちでつくっていく機運が高かった。
そうした入居者たちに共産党は受け入れられやすかった。
(宗教では創価学会が強かったため、よく対立した)。
現在ではそうした団地の空気は一変しているが、
それでも支持者は他地域よりも多い。

そんな大票田を持つA地区委員会が、
1年ほど前、
全党員に対し財政健全化を訴えるビラを配布した。

普通はここまで詳細な財務データを出した資料が、
一般党員に配られることはない。

しかし、
党勢減退とは別の「事情」で、さらに財務が悪化するため、
党員に危機感の共有をしてもらおうとしたのであろう。



■党費、赤旗以外に、募金の山で生命維持

A地区委員会の政治資金収支報告書を見ながら分析する。と
共産党の財務は以下のような状況にある。

(1)党費収入が落ちている。しかも党費の未払いが多い。
「党費納入額は実収入の1%」を守るように書いてあるのは、
規定の党費を払っていない者がいることを意味する。
ちなみに
共産党全体では党費納入率は60%ほどである。
3人に1人は党費を払ってない。

党費を払っていない党員には、生活苦などで払えない党員がいないこともない。
しかし

この実収入×1%=党費;
は、非課税世帯だとか関係なく、現金収入があれば1%です。
1年間で30万円の超貧乏年収なら ⇒ 3000円です。


■幽霊党員:■
多くは党籍がありながら活動に一切参加していない
「実態のない党員」=すなわち幽霊党員だ


幽霊党員の中には40年以上前から放置されてきた人もおり、
今はどこに住んでいるのかも分からない行方不明者も多い。
しかし、党員数が減ったことを党本部に知らせると、
地区委員会の成績に響くので、放置されてきたのが実態だ。

もっとも、
2010年9月末に行われた二中総(第2回中央委員会総会=党大会の間に年2〜3回開催される意思決定機関=)で、

党年金で富豪の貴族となる、志位和夫委員長は、
「実態のない党員」の整理を提起し、現在、整理が進められている。
これも外部に公表するのが怖いのか、
どれだけ整理が進んだかは今のところ明らかにされていない。

これは、
●新興宗教の会員数の幽霊会員と同じ現象。



(2)党費は年収の1%であるがゆえ、
定年時の退職金の1%も党費として納入しなければならないが、
納入していない人が多いのだろう。

 
(3)夏期・年末一時金募金とは、
専従党員のボーナスの原資である。
ボーナスは党員の寄附によって集められるのだ。

しかし、
今回はA地区委員会の財政が悪いため、
ボーナスは出ていない可能性が高い。
給料が出ていない可能性もある。


●給料の遅配、欠配など専従党員にとって珍しくも何ともない。
そのため多くの専従党員は、
配偶者に安定した給与が出る公務員や
手に職を持つ看護師などを選ぶ。

■宮本百合子を伴侶にした宮本顕治以来の伝統だ。


(4)赤旗の部数も減少しているが、未収金も多い。
未収金には、集金に行けない、行っても「金がない。来月に払う」と言われるような場合と、
購読者が赤旗代を払わずに転勤などでどこに行ったか分からなくなっている場合がある。
前者はまだ取れる見込みがあるが、後者はない。

 

(5)そしてなんといっても、募金の数の多さ。
挙げられているだけでも4つある。
党組織の維持はもちろん、
選挙費用や供託金、
赤旗配達時に発生する事故などの救援など、
多くの党活動が募金なしには立ちゆかない。
もっともこれは日本共産党にとって誇りでもあるのだが、
安定収入ではない寄附に多くを依存するのは、財政的な弱点だ。


実際、
このA地区委員会の政治資金収支報告書を見ると、
党費の約3.5倍の金額を寄附で集めている。
今は東日本大震災のため、震災募金と、
被災地の党組織復興募金が加わるため、
募金額はさらに膨れ上がっているだろう


熱心な共産党支持者は、
こうした多くの募金活動に対してもできるだけ協力してきた。
中には存命中、あるいは死後、共産党に資産を寄附する人も多かった。
地方党組織の土地建物には、そうした寄附で得られたものも少なくない。


2008年に総務省が行った政治団体の土地所有調査で、
●土地を所有する政治団体324団体のうち243団体が日本共産党の地方組織であった。
それには、こうした経緯があるのだ。
現在の党本部敷地も建物も、全て支持者の寄附で得たものである。
とはいえ、支持者の財布は打ち出の小づちではない。限度がある。



< 消失する高単価の「職場支部」 >:あるA地区委員会


まずは「党費納入数」の16年間の変化である。
「居住支部」とは、地域各所に存在する支部に属する党員で構成される支部で、
「職場支部」とは、企業内にある支部のことをさす。

?職場支部は企業内にあるため、
党員は現役の社員であり、所得も高い。そのため党費も多く徴収できる。

?居住支部は勤めていた会社を定年になった人や
主婦などが所属することが多いため、徴収できる党費は当然少ない。
16年間で党費が徴収できる支部と取れない支部の比率がほぼ逆転している。
その結果、1人あたり党費が約3分の2になっている。


?党費の「納入口数」の減少も深刻だ。
日本共産党は、以前は簡単に党員になれなかった。
試用期間があり、3ヶ月、半年程度の試用期間の、
活動実績が芳しくなければ入党を断られたのだ。
しかし、
党員拡大に力を入れだしてから審査は事実上なくなり、
現在では事実上誰でも入党できる。
そのため、
党への忠誠心の欠けた党員も多くなってきている。


「退職金党費の納入者数」も気になる。
年間で定年になる党員が何人いるのか不明だが、
赤旗の販売部数の減少も当然大きく響いている


■二中総で示された「専従切り」構想
繰り返すが、
このA地区委員会は、315ある日本共産党の地区委員会の中でも、
財務的な体力がある部類に属する。
それでも、早ければ今年、資金ショートを起こしそうだ。

しかし他の地区委員会でよく見られる、支持者などからの借金はない(A地区委員会)。
資金ショートを起こしても、地区委員会の所有地を担保に入れたり、
支持者から借金をすれば5年から10年程度はしのげるかもしれない。

もちろん、
■5年後に党があることが前提で、なければ破たんする。■

だが、
余力のない地区委員会はどうすればいいのか。

2010年9月に行われた二中総(第2回中央委員会総会)の幹部会報告において、
赤い貴族;志位委員長は次のように述べている。

「地区委員会の常勤常任委員は、1997年と比較して、1376人から918人へと大きく減っています。常勤常任委員がいない地区が3地区から11地区に増え、常勤常任委員が3人未満の地区が46.3%にまで増えています。地区委員会の指導中核が弱まっていることは、『支部が主役』の活動を援助する上で困難をもたらしています。


同時に、非常勤を含めると、現在、1万人を超える地区役員が活動していることは重要です。
その年齢構成は、50代と60代前半で約6割を占め、
試されずみの経験豊かで活力ある同志が多数となっています。
65歳以上の年金生活に入った同志たちが地区役員として奮闘していることも、大きな力です。

この1万人の地区役員に依拠して、
『支部が主役』の活動の発展をどうつくりだしていくかは、新しい挑戦の課題です」
と述べた。

ーーーー

■誰がどう読んでも、
専従給与を払わなくてもいい「地区役員」、
つまり他に仕事を持って所得を得ている者や、
年金生活者に地方機関を運営させようとしている。
ようにしか読めない。


■革命を夢見て、あるいは国民の苦難の軽減に貢献をしたい。
そんな考えで党に人生を懸けた、
地方の専従党員たちを切り捨てていくことで、
日本共産党は延命を図ろうとしている



赤い貴族制度の運営には、
組織の保持には、個人人間=核燃料棒と見る
下層市民のことは、自然肥料堆肥の原資と見る



■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■


< 追加文 >


?絶滅曲線式で、
減数率=(1−kp×n) で表現した。

しかし、より良いのは
減数率=(1−k×p^n)である。 p^n=pのn乗

pの範囲 ⇒ 0<p<1
nの範囲 ⇒ n=自然数 ;n=1,3,5、とか飛び数もある。
kの範囲 ⇒ k=補正係数 ;マクローリン係数の様なもの

ただ、
p^n では、計算労働が大変なので、
p×n として、簡単化した。



?検証計画;
赤旗2014年4月≒推定77万部、
赤旗2015年4月≒推定52万部 ⇒ 廃刊

に関して、
3年後(2014年)、4年後(2015年)に、
予想値推定値が、当たっていたか?、は検証する計画です。




大須田勉

東大の教養学部学生自治会が全学連を脱退・2012/6/14代議員大会で脱退議決した

$
0
0

東大の教養学部学生自治会が全学連を脱退する
2012/6/14代議員大会で脱退議決した
2012.6.20[産経抄]

東大の教養学部学生自治会が全学連を脱退する。
といっても50代より下の人にはチンプンカンなニュースだったかもしれない。
その意味合いを理解できる人は少ないだろう。
「そもそも全学連って何?」という素朴な疑問も聞こえてきそうだ。

▼全日本学生自治会総連合の略である。昭和23年に結成され、左翼政治運動の一翼を担ってきた。特にS35年(1960年)の「安保闘争」では、7千人が国会に突入するなど反対運動の先頭に立った。海外でも「ゼンガクレン」の名前で知られ、あの時代を彩る存在ではあった。

▼ただ安保闘争前から起きていた内部分裂は全共闘運動で決定的となる。
今では5つの党派がそれぞれ「全学連」を名乗り、細々と活動を続けてきた。
東大教養学部の自治会が決別するのは、日本共産党の影響力の強い、
いわゆる民青系全学連だという。

▼脱退の理由もその「共産党」だ。党支部が自治会の役員候補を勝手に決めるなどの「介入」に嫌気がさしてのことらしい。だがS35年(1960)の国会突入のさいも中心になった教養学部自治会は今や、民青系全学連における「主力部隊」だった。脱退は大打撃だという。

▼とはいえ、共産党の方の「落日」傾向も今に始まったことではない。
とりわけ国政の場では、衆参合わせて15人という勢力で民主、自民の二大政党の間で埋没してしまっている。テレビ討論での与えられたわずかな時間を除けば、
ほとんどその存在感を示す場もない。

▼政治離れや政党離れのこの時代に、一政党が若者たちを操ろうとすること自体しょせん無理な話である。学生運動の「脱共産党」も仕方ない。
いずれにせよ、昭和20年代からS30年代のセピア色のアルバムを見せられている思いがした

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

東大自治会が全学連脱退 「共産党、不当支配」
2012.6.17産経ニュース[共産党]

戦後の学生運動の象徴だった全学連(全日本学生自治会総連合)に所属する東京大学教養学部学生自治会が、全学連と都学連(東京都学生自治会連合)から脱退することを代議員大会で決定した。
●同自治会は理由について「日本共産党による全学連と都学連を通じた不当な支配から脱却するため」としている。
●同自治会は全学連の中核的存在。関係者は「全学連にとって存続に関わる問題で共産党勢力の凋落(ちょうらく)を裏付ける動き」と指摘している。

全学連は現在、5つの党派が独自に名乗っているが、
●同自治会が所属していたのは最大組織とされる共産党系の日本民主青年同盟系(民青系)全学連。
●同自治会執行部によると、共産党は長年、学生党員を正副委員長に就任させることで、党の指示通りに自治会が動くよう画策。直接または全学連、都学連を通じて署名活動を指示するなどしてきたという。

昨秋(2011/秋)、中国籍の委員長を中心に脱退へ向けた議論が高まり、執行部内の党員も党に反旗を翻して同調。
■2012/6/14日に開かれた代議員大会で脱退が決議された。

産経新聞の取材に対し、
共産党東京都委員会、全学連ともに「不当な介入は一切ない」としている。


■全学連■
各大学にある学生自治会の全国組織。
学費値上げ反対闘争を背景に、昭和23年(1948)に約150大学、20万人以上で結成されたが、
徐々に対立を深め、共産主義者同盟(ブント)などの各派に分裂。
●新左翼系は無党派学生らと全共闘を結成し安保闘争に参加するが、抗争などで弱体化した
●民青系全学連は現在、活動実態のある加盟数を37としているが、実際は10程度とされる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

共産党員、自治会人事を掌握 東大・中国人学生が反旗 
2012.6.17産経ニュース[共産党]

かつての東大学生運動の中心的存在だった教養学部学生自治会が全学連から脱退した。
運動が下火になった後も40年以上続いた「共産党支配」に終止符を打ったのは、
皮肉にも党に心酔して一時は党の“手先”となった中国人学生だった。

「彼ら(共産党幹部)は学生自治会を自分たちの従属物としか思っていない。それが許せなかった」
こう憤る教養学部3年で同自治会前委員長の何(か)※さん(20)は、全学連脱退を主導した仕掛け人だが、実は高校時代から共産党の機関紙を愛読していた共産党信奉者だった。

何さん(20)は山口県で育ったが、中国籍のため党員にはなれなかったものの、入学直後から党活動に加え、同自治会の活動にも積極的に参加し、平成22年12月に委員長に就任した。

しかし、翌年(2011)の12月には党と決別。
党の狡猾(こうかつ)な手口による学生自治会支配に嫌気がさしたからだった。

何さん(20)によると、手口の基本は、執行部内の党員に党の方針を指示し、ほかの執行部員の賛同が得られるよう主張させることだという。そのために行うのが、党員を正副委員長に就任させるという工作だ。

党の支部会議で次期正副委員長候補を勝手に決定。現職委員長に指示して、この候補に活動方針の提案など役割を多く与え、存在感を高めて自然と委員長に選ばれるように画策する。

何さん(20)の「転向」を契機に、ほかの執行部員らも相次いで賛同。党員2人までも反旗を翻した。教養学部2年で、現委員長の五十嵐真純(20)は「今は学生運動が盛んだった時代とは違い、共産党的な要求実現一辺倒では学生の支持は得られない」と話す。

全学連にとって同自治会の脱退は存続に関わる打撃だ。
同自治会の分担金は、全学連の収入のうち約4割を占めているほか、
役員も多く出しているためだ。

※=王へんに力


■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■

■現在の全学連■状況↓

現在は以下5団体が「全日本学生自治会総連合(全学連)」として並存し、
それぞれが全日本学生自治会総連合としての正当性を主張している。
5団体とも「全日本学生自治会総連合(全学連)」と名乗る。
民青系全学連をのぞいて、
「全学連(○○委員長)」と委員長名でほかの全学連と区別する。

?民青系
?中核派系
?革マル派系
?革労協現代社派系
?革労協赤砦社派系

ーーーーーーーー

?■民青系
日本民主青年同盟(民青)が主導する全学連である。本部は東京都武蔵野市にある。毎大会には著名人による基調講演が行われており過去には内閣府参与の湯浅誠(2008年大会)などが講師となっている。学生から集めたアンケートなどをもとに省庁等に対する要請行動を行っており、2006年には国立大学の学費値上げをストップさせるなどの成果を上げたと主張している。

●加盟学生自治会の数は公称170だが、
2012年現在で実際に全学連の活動に参加している学生自治会のある大学は8にとどまる。

活動が確認できないとして代議員選出権等、全学連での権利が停止されている学生自治会もある。

加盟自治会は、加盟分担金を全学連に払うことになっているが、
履行しない自治会が多い。
2006年には、加盟分担金合計の過半を立命館大学の加盟自治会による拠出がしめた。
現在(2012)は立命館大学の加盟学生自治会も加盟分担金を払っていない。
機関紙は「祖学(祖国と学問のために)」(月刊)。一度廃刊となったが、2012年現在はコピー機で印刷している。印刷部数はおよそ1000部、定期購読部数は150部以下となっている。

●地方組織として、
東京都学生自治会連合(都学連)、
京都府学生自治会連合、
愛知県学生自治会連合等をおく。

現在(2012)、
都学連には東京学芸大学・東京農工大学が、
京都府学連には立命館大学や京都市立看護短期大学など、
愛知県学連は日本福祉大学や名古屋大学などの自治会が加盟している。

2012年6月、東京大学教養学部自治会が代議員大会を開き、全学連からの脱退を決議した。
東大教養学部自治会は全学連の発足以来の加盟自治会であった。

かつては大阪府組織として、6大学8自治会が加盟する大阪府学生自治会連合(府学連)があったが、現在は活動を停止している。
2005年に旧大阪府立大学・大阪女子大学・大阪府立看護大学の府立系3大学が統廃合し、自治会組織が再編されるのを契機として、同年2月(2005/2)、第71期府学連大会にて大阪府立大学学生自治会連合が府学連から脱退した。それに対応し、府学連も同大会で役員不足による活動休止を決定し、新たに代替組織として大阪学生要求実現連絡会(大阪連絡会)を設置した。大阪府立大学学生自治会連合は2005年6月に「大阪府立大学中百舌鳥キャンパス学生自治会」に再編された後、全学連再加盟の検討を続けたが、2008年後期に加盟しないことを決定した。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

?■中核派系
中核派系とされる全学連である。
現在は主に、法政大学、東北大学、富山大学、岡山大学、広島大学で「学生自治会」を名乗って活動が行われている。なお大学から公認されている自治会は現存しない。現在、前述の大学に加え、筑波大学、弘前大学など8大学での活動が確認されている。

●2006年3月14日、法政大学「当局」の立て看板撤去に抗議していた中核派活動家など29人(内法大生など大学関係者は5人)が建造物侵入と威力業務妨害の容疑で逮捕された。逮捕時には約200人の公安警察が動員された。中核派はこの事件を「2006・3・14法政大学弾圧事件」と称し強く反発した。2006/6/25日には29人全員が釈放され、そのうち法大生であった5人には停学や退学処分が下された。その後、処分生5人や法政大学無関係者も含む逮捕者を中心に「3・14法大弾圧を許さない法大生の会」という団体をつくり、学内外で抗議活動を現在も行っている。大学側は警備員を常駐させるなどして対処している。06、07年中に停学学生に対して無期限停学や退学など追加処分が下され、(大学無関係者含めて)逮捕者は40名を超えている。

●2007年4月27日、退学処分に対する中核派などのデモ中、中核派全学連活動家の学生ら2名が大学職員への暴行容疑で逮捕された。

●2009年4月24日、東京地裁による「情宣活動禁止等仮処分命令」、大学側による処分発令などに対する中核派らによる抗議集会とデモにおいて、中核派全学連活動家の学生ら6人が公務執行妨害などの容疑で逮捕(集会中に5人、デモ後に警察署前で行われた抗議行動で1人)された。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

?■革マル派系
革マル派系とされる全学連である。
新左翼党派系の全学連の中ではもっとも大きな組織実態を有している。
加盟自治会は愛知大学(豊橋校舎)、國學院大學、北海道大学農学部など全国に点在する。

同全学連の活動家は、「全学連フラクション(ZF)」に組織され、さらに5年以上ZFで活動したものはマル学同革マル派への加盟が認められる。

1990年代から2000年代前半にかけて早稲田大学では、
革マル派と同派の影響力を排除しようとする当局との間で激しい対立が続いた。その中で、同全学連の加盟自治会であった商学部自治会が1995年7月に、社会科学部自治会は2005年3月に公認を取り消された。また、大阪経済大学の自治会は、2005年10月に自治会活動家が教職員に対して暴力事件を起こしたとして、2005年11月10日に非公認化された。加盟自治会の有無にかかわらず、サークルを通した活動も展開しており、北海道大学・北海道教育大学旭川校・帯広畜産大学・金沢大学・早稲田大学・國學院大學・津田塾大学・和光大学・横浜国立大学・名古屋大学・奈良女子大学・大阪経済大学・神戸大学・鹿児島大学・琉球大学・沖縄国際大学などで活動が確認されている。

ーーーーーーーーーーーーー

?■革労協現代社派系
革労協現代社派系とされる全学連である。

2011年現在は同派が拠点とする大学は1校も無いが、
明治大学では明治大学学生会中央執行委員会・学苑会中央執行委員会名で学外活動を中心に新歓闘争などを行っている。

ーーーーーーーーーーーーー

?■革労協赤砦社派系
革労協赤砦社派系とされる全学連である。
現在、同派が自治会を有する大学は無いものの、
千葉大学、宇都宮大学、東北大学、福井大学、徳島大学、九州大学のサークルに対する活動が確認されている。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

大須田勉

共産党90周年、陰りの道 党勢ジリ貧 [反原発]主導できず⇒廃刊党

$
0
0


共産党90周年、陰りの道 党勢ジリ貧 [反原発]主導できず
2012年7月15日産経新聞

日本共産党(志位和夫委員長)は2012/7/15日、結党90周年を迎えた。
非合法政党として発足したのは大正11年で、現在の主要政党では最も古いが、
党勢は低迷している。
民主、自民両党の二大政党に不満を持つ層の受け皿となる戦略は奏功せず、既成政党の一つとして埋没気味なのは否めない。
党員の高齢化や財政難など構造的な課題も山積だ。(佐々木美恵)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

◆「苦労した10年」◆

「自民か民主かのキャンペーンが行われ、共産党は蚊帳の外に置かれ、苦労した10年だった」

志位和夫は7/13日の記者会見で、最近の10年間についてこう振り返った。
平成16年(2004)には党綱領を43年ぶりに全面改定し、

■イデオロギー色の強い「前衛党」や「労働者階級の権力」などの文言は削除。
■自衛隊や象徴天皇制の容認方針を打ち出して「ソフト路線」を強めたが、

国会の議席増に結びつかなかった。
古参党員は反発し、有権者からは見せかけにすぎないと受け止められたためだ。

H16年(2004)綱領の《 案 》を公表した直後のH15年(2003)衆院選では、
改選前20議席を9議席に大幅に減らし、それ以降議席数は横ばい。
中選挙区制時代とはいえ、昭和54年(1979)の衆院選で41議席を得たのとは隔世の感がある。

志位和夫は民主、自民、公明3党が消費税増税法案の可決に踏み切ったことや民主党の分裂、福島第1原発事故以来の反原発論の高まりから、「反転攻勢につながる潮目の変化を感じる」と期待を寄せている。

共産党は、非自民・非共産の各党が結集した「新進党」(平成6年12月〜9年12月)が解党した過程で批判票の受け皿になったと分析している。

H8年(1996)の衆院選の比例代表で727万票、
H10年(1998)の参院選の比例代表で820万票を得た。
H21年(2009)の衆院選の比例代表は494万票、
H22年(2010)の参院選の比例代表の得票は356万票で、

これ以上の減少は何としても避けたいところだ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

◆機関紙収入も苦戦◆

組織の弱体化は深刻だ。

■党員数は、
H2年(1990)には50万人を誇ったが、
今年(2012,H24)5月1日現在で31万8千人。

■党収入の柱の機関紙の読者は、
10年前(2002,H14)の約190万人からH22年(2010)には約145万人となり、
苦戦している。

■党員の高齢化も加わり、組織の弱体化が党勢拡大の足を引っ張る悪循環も起きている。
実際、H20年(2008)にワーキングプアの社会問題化に伴う『 蟹工船 』ブームでも、
党勢挽回のチャンスを逃している。

共産党は「反消費税」「反原発」を昔から強く主張してきたが、
○消費税増税反対では、新党「国民の生活が第一」の小沢一郎代表らの動きが目立ち、
○反原発でも共産党は運動の主導権を握れていない。

今年(2012,H24)5月には「全国活動者会議」を25年ぶりに招集し、
党員や機関紙読者獲得の大号令をかけた。
2012/6月に2千人、今月(2012/7)に入ってから千人の入党者を得たが、
それでも昨年(2011,H23)決めた新規入党目標の5万人に対し、
約1万2千人の獲得にとどまっている。


ーーーーーーーーーーーーーーー

《 政党 》から、《 政治団体 》に名称が変わるのはいつだろう〜?

大須田勉

ちょびヒゲ安部首相ヒトラー写真投稿事件[共産党・吉良よし子参議院議員]⇒赤い欲望の霊柩車を操る女・佳子

$
0
0
10005文字数

共産党・吉良よし子参議院議員[ちょびヒゲ安部首相ヒトラー写真投稿事件]

《あ、これも行きたい…。若者広場in赤旗まつり。1日目14時30分から、ドラム・レクチャー。ドラムが待ってます!》@kirayoshiko・2014年11月1日09:35投稿

赤い欲望の霊柩車2014年3月26日発売週刊新潮
ーーーーーー
ちょびヒゲ!!
共産党・吉良よし子代議士が「安部首相ドラム」ツイート、批判が殺到し大炎上中
2014年11月5日AOLニュース[文・今岡憲広]

共産党の代議士・吉良よし子(32)が、自身のtwitterアカウントで、
安倍首相の顔をコラージュしたドラムセットの画像を投稿。
・「あまりにひどすぎる」
・「これがヘイトだ」
と批判が集まっている。

原文=《ドラムレクチャーなう。@若者ひろば まにあったーp(^_^)q pic.twitter.com/0SSDqAOw7p
- 吉良よし子 (@kirayoshiko) 2014, 11月 1》

というのも、たとえそれが首相の物でなかったとしても、
ドラムという性質上、「叩く場所」に人の顔をデザインするのは、趣味の良いものとは言えない行為。
しかもその顔が首相の物で、かつ、
ヒトラーを彷彿とさせるような「チョビヒゲ」までコラージュした物となればなおさらだ。

そのため、この画像を見た一般ユーザーからは、
・「こんなヘイトが許されるのですか?」
・「韓国でよく見る光景を思い出しますね」
・「首相を叩いて喜んでるんですか」
・「とても子供には見せられない」
といった強烈なバッシングが相次いだ。

先般のSMバー騒動にしかり、とかく、政治家についてはその「品性」が問題視される事も少なくない。
場合によってはそれが自らの政治生命を危うくする事もある。
そうした意味で今回のツイート、しばらくの間は有権者からの厳しい声が続きそうな気配だ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
吉良よし子参議院議員がTwitterにアップした写真・日本共産党の活動家が安倍ヒトラードラムを抱えている写真
2014/11月1~3日にかけて日本共産党が行った『赤旗まつり』にて、ドラムレクチャーと称してヒトラー髭をつけた安倍総理の写真を張り付けたドラムを叩いて楽しんでいたようです。

この写真をアップしたのは以前・・・
「『オスプレイがペースメーカーに不調をきたす』@kirayoshikoツイート」とデマを飛ばしていた共産党の吉良よし子参議院議員です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

共産・吉良佳子⇒週刊新潮に路チュー撮られた 共産党は「常軌逸した取材」と激怒
2014.3.26ZAKZAK

女性議員の「路チュー」が激写され、永田町で話題となっている。
昨年2013/7月の参院選で初当選し「共産党のキラークイーン」と注目された吉良佳子参院議員(31)=東京選挙区=だ。
公衆の面前で男性とキスしている写真が、2014/3/26日発売の「週刊新潮」に何枚も掲載されていた。

同誌によると、
吉良の相手は同い年の男性(松嶋祐一郎31)で、ともに独身。
目黒区議選や東京都議選に落選した共産党の同志だという。

地下鉄池袋駅のホーム、目黒区内の路上や公園で、キスを交わす2人は実にお似合いだ。
これに対し、共産党は怒りを爆発させた。

とは言っても、
怒りの矛先は週刊新潮。党広報部は夕刊フジの取材に「常軌を逸した取材だ。
国会議員といってもプライバシーがある」と激しく糾弾。
今回の件で、吉良に処分が下るかどうかを聞くと、「バカバカしくてコメントに値しない」と一蹴した。

【元党政策委員長で、政治評論家の筆坂秀世】も、
「党の規約は好きな男とイチャつくのを禁止していない。お好きにどうぞ」と笑い飛ばす。
ただ、真面目な共産党らしく、かつて共産党の雑誌『女性のひろば』で、男女の不倫を描いた渡辺淳一の『失楽園』に肯定的な批評が掲載されたとき、
「宮本顕治元議長が激怒して、編集長が更迭された」(筆坂)。

ともかく、ブラック企業対策で活躍する吉良にとって、元気の源は恋の力のようだ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

大胆「路チュー」撮られ、「今、幸せです!」 共産党アイドル・吉良佳子議員の熱烈恋愛
2014/3/26J-cast

「お堅い」「暗い」―そんなイメージを持たれがちな日本共産党で、今「アイドル」「キラークイーン」ともてはやされているのが、吉良佳子参議院議員(31)だ。フレッシュさに加え、「脱原発」「ブラック企業根絶」など主張を貫くブレない姿勢もあり、熱狂的な支持者を抱えている。

そんな吉良よし子議員が、共産党のイメージを根底から覆すような行動を見せた。
「公衆の面前で彼氏とイチャイチャ」をスクープされ、ツイッターでは「交際宣言」までしてみせたのだ。

■駅ナカで20分キス、男の耳甘噛みする一幕も■男=松嶋祐一郎31■

吉良よし子議員は高知県出身で、父親は共産党高知県議・吉良富彦という、いわば「共産一家」だ。
2013年7月の参院選で東京都選挙区から立候補し、70万票を超える票を得て3位で当選した。
共産党にとって、選挙区選で議席を確保するのは12年ぶりという快挙だった。

積極的に情報発信を行っているツイッターは約1万7500フォロワーを抱え、共産党内では小池晃副委員長、志位和夫委員長に次いでフォロワー数3位を誇る。
支持者からは日々応援や鼓舞の熱烈なリプライが寄せられ、共産党の看板娘と言ってもいい人気者だ。最近では14年3月21日、安倍晋三首相の「笑っていいとも!」(フジテレビ系)出演に抗議し、官邸前の「安倍首相は辞めていいとも!」コールに参加した。

そんな吉良よし子議員の「スキャンダル」を、2014/3月26日発売の「週刊新潮」が報じた。
「所構わず公園で 駅で 公道で 男とキスする女性マルキスト 共産党アイドル『吉良佳子議員』の革命的接吻」
というかなり力の入った見出しが付いている。

2014/3月21日から23日の3連休、同世代の共産党員の男性(松嶋祐一郎31)と連日逢瀬を重ね、
➊初日は電車に乗り込む直前に駅のホームで「熱烈キス」、
❷最終日には公道で「路チュー」、
❸駅構内でも20分近くに及ぶキスの嵐。
❹男性は吉良よし子議員の【胸に手を添え】
吉良よし子議員が男性の【耳を甘噛み】するような一幕もあったという。

それらの場面が「証拠写真」付きで記事になってしまった。
《共産党員の義務は「市民道徳と社会的道義をまもる」であったが~裏顔は別物で~!!》

▼吉良よし子の「交際報告」ツイート▼
「共産党の醜聞」のように報じられたが、当の本人はいたって楽しそうだ。

2014年3月25日、週刊新潮の発売に先手を打つ形で、
「今日の質問無事に終わりました!ところで、春ですね。そんな春にちょっとご報告。実はいま、真剣につきあっている人がいます。幸せです。みなさんにも応援してもらえたら光栄です♪」
とツイート。

支持者からは
「心からおめでとうございます」「春らしいホンワカニュースをありがとうございます」「頑張ってください!素敵な恋を!」
など、交際報告を歓迎するリプライが寄せられた。

翌3/26日午前には、
「おはようございます。たくさんの祝福&激励、本当にありがとうございます!!みなさんから元気をもらって、今日もがんばります」
と投稿している。

▼共産党の規約▼では、
党員の権利と義務として「市民道徳と社会的道義をまもり、社会にたいする責任をはたす」と定めている。
「路上で熱烈キス」「駅ナカいちゃつき」が「市民道徳と社会的道義」にかなうか否かについては様々な意見がありそうだが、
ひとまず「共産党アイドルの恋愛」はあたたかく見守られていきそうだ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

共産アイドル議員吉良佳子が撮られた「濃厚すぎるキス現場」:ところ構わずKiss
2014/3/27日刊ゲンダイ

共産党の吉良佳子参院議員(31)に熱愛が浮上した。3月26日発売の「週刊新潮」が、同じ共産党員の男性(32)との「路チュー」現場を掲載している。

吉良よし子本人はツイッターでこうつぶやいた。
<春ですね。そんな春にちょっとご報告。実はいま、真剣につきあっている人がいます。幸せです。みなさんにも応援してもらえたら光栄です♪>

凄いのは、2人のキスっぷりだ。
❶まず池袋駅の地下鉄ホームで堂々とブチュー。
❷別の日は目黒区の公道で「路チュー」。
❸さらに、都立大学駅の構内で20分も舌をからませ⇒駅近くの公園に移動して、"ベンチでキス"、"立ってはキス"と、とにかく、キス、キス…と接吻をしまくっている。

吉良佳子の唇を奪った男性党員(松嶋祐一郎32)は何者なのか?
「彼は目黒地区委員会の青年学生部長です。2011年の目黒区議選、昨年(2013)の都議選に出馬し、いずれも落選しましたが、今も毎日、中目黒駅や都立大学駅で街頭演説に励んでいます」(関係者)

いくらなんでも人前でやりすぎじゃないか!!

▼松嶋祐一郎(男/32)▼
松嶋祐一郎は東京都目黒区議選や都議選に共産党から出馬し落選した。
現在共産党目黒地区の雇用・福祉対策委員を務めている。

■2014/12/20=吉良よし子+松嶋祐一郎=結婚をしたと言う?
但し、初期の野田聖子(自民党)の様に同棲婚型[同居型?or通い男型?]なのか~
本格的な戸籍婚型なのか?は不明です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
■■■■■■■■■■■■■■■■■■

吉良佳子(吉良よし子)1982年9月14日(32歳)

■参議院議員(東京都選挙区当選回数1回)■
任期=2013年7月29日~2019/7(6年間)

■経歴■

高知県高知市出身。
高知県立高知追手前高等学校、
早稲田大学第一文学部(日本文学専修)卒業。

卒業後、東京・豊島区の宝印刷で4年間、「企業の社会的責任」の報告書作成支援の仕事に携わる。

❶2009年7月に実施された東京都議会議員選挙に日本共産党公認で豊島区選挙区から立候補⇒17,683票を獲得するも、次点で落選。
❷2013年7月に実施された第23回参議院議員通常選挙に日本共産党公認で東京都選挙区から立候補。703,901票を獲得し、3位で当選。
日本共産党としては12年ぶりとなる選挙区での議席獲得となった。
(東京都選挙区が5人区になってから3位当選した共産党議員は初めてである)

❸2014年日本共産党第26回大会で准中央委員に選出。

■家族■
父・富彦、母、弟。
▼父は高知県議会議員(日本共産党・高知市選出)の吉良富彦。
ーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーー

参議院議員の任期が2019/7までだが、
さて、次期選挙で落選するか?・・
なにせ、5年後だし、きっと東京都都民は記憶に忘れ、もうEEじゃないか?とそれに女だしと・・
また当選となれば・・・・??

父親がたまたま共産党だったから、佳子は共産党で生計を立てた
父親がもし自民党だったら、佳子は自民党で生計を立てる。
そんな程度の生き方なのだろう
肉体から噴き出す、赤い欲望をブチギレでガレキを作りながら突き進む吉良佳子!!

■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆
■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆

【共産党・女性路上倒れ放置事件】
衆議院総選挙【大阪】共産党に批判殺到!⇒倒れた女性を放置し演説続行!!
2014/12/11J-cast

12/6日午前、JR森ノ宮駅前で行われていた《清水忠史》候補の演説中に駅構内で女性が倒れた。
しかし、選挙カーはなおも演説を中止せず、結果、救急隊への連絡が聞こえづらくなった。

ツイッターには目撃者と思われる人物から、
・「真ん前やで、真ん前。倒れてんの丸見えやのに」
・「一向に誰も声かけやん」
・「私がぶち切れるまで演説をやめてくれなかった」
との報告が寄せられている。

ーーーーーーーーーーーーー

■投稿ツイッター原文■
▼⇊ツイッター⇊minimum44(@SOUNDminimum)⇊{ツイートをしたアカウントは12/12日削除されてます}▼

❶⇒“
大阪、森ノ宮に朝から用事で行ったときのことです。森ノ宮駅に着いたのは10時前。改札を出て、駅を出たところに女の人が手を強く押さえたままうつ伏せで倒れてて。で、その真ん前には堂々と選挙カーが止まって大音量で誰も聞いてないのに演説中。真ん前やで、真ん前。倒れてんの丸見えやのに。
— minimum44 (@SOUNDminimum) 2014, 12月 8

❷⇒“
全く聞こえやんくて話通じなくて。わからんくて、で駅員に救急車呼べやら電話やらしてる最中、まーだ演説やめへんからプッチーンきて。 私がぶち切れるまで演説をやめてくれなかったっていうとこと。第一発見者が緑の蛍光ジャンパーのバアサンやのに眺めてるだけで何もしなかったってことと。
— minimum44 (@SOUNDminimum) 2014, 12月 8

❸⇒“
第一発見者が緑の蛍光ジャンパーのバアサンやのに眺めてるだけで何もしなかったってことと。真ん前で人が倒れてるのに、演説を続けたってことと。演説を中断してからも、演説がうるさくて電話で状況説明ができんところに『もう電話終わりました?』と聞いてくる無神経さと。
— minimum44 (@SOUNDminimum) 2014, 12月 8

❹⇒“
挙げ句の果てには『もう救急車来るんで、もう行きます』と行って、去ろうとしたこと。 日本共産党★清水ただしこのお方です。共産党は国民の命と安全を守るらしいんですが、目の前で人が倒れてたらこうなんです。政策とかマニフェスト見ても余計腹立つわ(笑) こんな政治家いやだ。
— minimum44 (@SOUNDminimum) 2014, 12月 8

ーーーーーーーーーーーーー

★1⃣日本共産党大阪府委員会は、取材に対し、
「女性が倒れたさい、演説を行っていたのは清水候補本人でなく、係の者だった」「女性に気付いた清水候補は係の者に注意し、演説をやめさせた」
と話している。
日本共産党大阪府委員会は2014年12月10日、12/6日の演説中における選挙カーの対応を公式ホームページで謝罪した。
「事故や病気への対応を最優先すべき事は当然であり、今後は乗務員一同機敏な対応が出来るように徹底していく所存です」としている。

★2⃣ペヤング焼きそば・ゴキブリ写真の投稿ツイッター者のアカウントは削除された。と同じく
この共産党・女性路上倒れ放置事件の投稿ツイッター者のアカウントは削除された。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
■■◆◆■■◆◆■■■⇊◆■■■■⇊◆■⇊◆◆■⇊

理解に苦しむ安倍首相とヒトラーを重ねる主張⇒ちょびヒゲ姿
2015.1.9ZAKZAK・ジャーナリスト石井孝明

安倍晋三首相とヒトラーを重ね合わせるような主張がある。
昨年2014/12大みそかのNHK紅白歌合戦で、サザンオールスターズの桑田佳祐が、
ヒトラーを連想させる★「ちょびヒゲ」をつけて登場した事などを受け、インターネットや一部メディアで盛り上がったのだ。
歴史知識の欠如ともいえる指摘について、
元時事通信記者で、安全保障や戦史、エネルギー問題に詳しい、ジャーナリストの石井孝明が迫った。

★ちょびヒゲ姿の桑田が紅白でメッセージ性の強い「ピースとハイライト」を歌った事を受け、
ネットなどに
・「安倍政権への批判だ」
・「目を覚ませ若者諸君!」などと、賛否両論、炎上に近い投稿が相次いだ。

朝日新聞は2015/1/6日朝刊でこの件を「サザン 紅白での歌がネットで反響」として取り上げ、
「『裸の王様♪』政権を批判?」・「『素晴らしい』『応援しない』」などと見出しを掲げた。

TBS系『サンデーモーニング』は1/4日の放送で、「群衆と戦後70年」という特集を組んだ。
ネットやツイッターでは
・「安倍政権とヒトラーの類似性を指摘している」
・「洗脳する気か」といった反応があった。

しかし、
歴史をひもとくと、ヒトラーと安倍首相、そして2人の政権はまったく似ていない。一連の批判は完全な的外れだ。

まず、
ヒトラー政権は犯罪集団だった。
著書『わが闘争』で示されたように、ユダヤ人を主敵とする排外主義、東方地域への領土拡大、政治における強力な指導の必要性を強調した。
これらは第2次世界大戦の原因になり、数百万人のユダヤ人の虐殺、他民族の抑圧につながり、国を滅亡させた。

一方、
安倍政権はアベノミクスで日本経済を復活させ、デフレ脱却を目指している。
「地球儀を俯瞰する外交」は、排外主義や領土拡大とは相いれない。
憲法改正で国の変革を主張するが、現行憲法にこそおかしなところが多々ある。改憲には賛否両論あるが、犯罪性はない。

政治手法も異なる。
ヒトラー率いるナチスは1932年、ドイツ・ワイマール共和国の選挙で第1党になり、1934年のヒトラーの総統就任まで、合法を装いながら、違法な政治権力の奪取をした。最大で200万人を数えた暴力組織「突撃隊」(SA)を暗躍させ、政治殺人と暴力を続けて反対派を力で押さえ込んだ。人々の「強力な政治指導者」への待望も利用した。ヒトラーは一種の「悪魔」だった。

安倍首相は2012年衆院選で政権奪還に成功し、2013年の参院選と2014年の衆院選で圧倒的勝利を収め、国民の信任を得た。
こうした過程で、安倍政権が暴力による政治活動を行った事はない。

■一部の野党議員(吉良よし子共産党参議院議員)■は、
ヒトラーの様にちょびヒゲを描いた安倍首相の顔をドラムに張り付けて叩き続けるパフォーマンス写真をネットに掲載し、批判を受けた。その方が暴力的だ。

今年2015は第2次世界大戦終結から70年にあたり、その総括が国際的な議論になる。
そこで、自国の首相を「犯罪者だ」と叫ぶような行為は、日本の国際的イメージを傷つける。
そして、
◆欧米の論壇では政治家をヒトラーに例えるのは最大限の侮辱だ。一国の首相に対する事実に基づかない誹謗は許されないはずだ。

ヒトラーから考えるべき教訓は、
「民主政治は合意をつくるのが難しく、決定が遅れる」という事だ。
安倍政権は山積する課題を乗り越えて「改革を断行」(首相年頭記者会見)できるのだろうか??!!

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
▼海外ニュース・ドイツ▼

■ヒトラー変装写真で代表辞任・独の反イスラム団体■
2015年1月22日共同通信【ベルリン共同】

・《西洋のイスラム化に反対する愛国的な欧州人》の団体で
ドイツ・ドレスデンで反イスラムデモで演説するルッツ・バッハマン代表=2014/12月[AP共同/写真]
・ドイツの反イスラムデモの主催団体=《西洋のイスラム化に反対する愛国的な欧州人》の
ルッツ・バッハマン代表(41)が1/21日、
ナチス・ドイツの指導者ヒトラーに変装した自らの写真をフェイスブック上に投稿した事を報じられ、代表を辞任した。と同団体が発表した。

●ドイツでは公の場でナチスを礼賛すると罪に問われる。
報道によると検察当局は刑法の民衆扇動容疑で捜査を開始した。
・バッハマンは、
ドイツの反イスラムデモの象徴的存在。
デモには【ネオナチ】や極右勢力が加わっているとの指摘が絶えなかったが、
ヒトラーに変装した自らの写真の影響で団体のイメージ悪化は避けられない。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

大須田勉

日本共産党の”赤い貴族問題”と言う陰の歴史から続く党幹部の豪勢な生活は変わらない

$
0
0
7000文字数
↓実話【 不破哲三=上田建二郎の赤い貴族生活 】↓

『週刊文春・2006年11月9日号』
週刊文春の"引退後も特権享受不破哲三(本名=上田建二郎)は『赤い貴族』"

2003年(平成15年) 衆議院議員を引退する。
2006年(平成18年)日本共産党議長を退任する。
現在(2013/H25)=日本共産党中央委員会付属社会科学研究所所長。


▼引用開始↓

私は、専属の料理人がいると言う神奈川・津久井の山中深くにある
不破(上田建二郎)の私邸を訪ねてみた。(中略)
不破(上田建二郎)が七加子夫人名義でこの土地を購入したのは昭和60年(1985)。
広さは3265平方メートル(約988坪)。

昭和62年には所有権がすべて不破哲三(本名=上田建二郎)に移転。
広大な土地の上に、四棟の建物が建築され、
その一つは書庫兼不破の趣味である郷土玩具の陳列室として使われている。

問題はそのうちの二棟。
木造二階建ての居宅および車庫の名義は、共産党の所有となっている。

私有の土地の上に、党が建物を建てるという、極めて公私の別がない形になっているのだ。
この建物に「不破(上田建二郎)の秘書、ボディーガード兼運転手、料理人が常駐していた」
(党関係者)という。(中略)

不破(上田建二郎)が暮らすのは津久井の山荘だけではない。
山荘が都内から遠いため、東京渋谷にある通称「千駄ヶ谷寮」で暮らすこともしばしばだった。
ここは共産党所有の最高幹部専用の施設で、
不破(上田建二郎)らが宿泊するためのベッドルームもあるという。

▲引用終了↑

私邸なのに日本共産党名義というのがイカシています。
共産主義的とも言えますが「不破(上田建二郎)が固定資産税払ってんの?」という疑問も出てきます。
その辺はどうなんでしょうか。

次に、
記事は不破(上田建二郎)の収入について

▼引用開始↓
不破(上田建二郎)の国会議員時代の歳費は、
引退するまでの数年間を見ると、

約2070万円(平成12年、13年)、
約1938万円(14年)。

共産党は、
国の政党助成金を受けていないが、
その活動経費の一部を、
議員や議員秘書の歳費などを、カンパさせることで賄っている。
(中略)

不破(上田建二郎)は、
平成15年、党に約650万円を寄付しているから、
同程度の金額を歳費から差し引いたものが、給与所得だったと考えられる。

計算=2000万円ー650万円=1350万円≒不破哲三(上田建二郎)の給与

実は、党内で問題視されているのは、
歳費とは別の「雑所得」である。
不破(上田建二郎)の議員時代を見ると、

不破(上田建二郎)の「雑所得」は

約1018万円(H12年)、
約1067万円(H13年)、
約659万円(H14年)

とあるが、
その内訳は圧倒的に印税と原稿料収入が多いという。
(中略)

不破(上田建二郎)は国会議員を辞したため、
平成16年の党への寄付は38万9000円に激減。
平成17年10万8000円(党への寄付)。

ところが、
平成16年には10冊の単行本を出版、
そのうち7冊が新日本出版社から出ている。

定価の合計は約1万円(単純計算で1冊あたり1000円)。
不破(上田建二郎)の単行本は最低でも3000部は印刷するというから、
7冊で21000部、
印税が6%としても1260万円の収入を手にしていたと推測できる。

これに加え、
国会議員互助年金として、
34年間衆議院議員を務めてきた不破(上田建二郎)は、
年間600万円ほどを受け取っているはずだ。

共産党はこの年金制度を「非常に特権的」だと批判しているが、
不破(上田建二郎)が年金を辞退した様子はない。

さらに、
年間700~800万円という常任幹部会委員(共産党)としての給与などが加わるから、
優に、
年収2000万円を超える。

給与の遅配、欠配が続く地区専従職員とは雲泥の生活ぶり。
まさに「赤い貴族」である。
▲引用終了↑


うひょ~セレブ生活一直線。
不破(上田建二郎)の党への寄付は激減しているのに、
不破(上田建二郎)の収入はそんなに減っていないことを暴露されてしまいました。
不破(上田建二郎)の平成17年の寄付金額は月あたり9000円、携帯電話の料金なみです。

計算=108000/12=9000円/月

そしてシメは「あーせー江青」です。
もしかしたらこの部分が一番面白いのかもしれません。

以下省略。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■

かなり昔むかし、、
死んだ野坂参三のスパイ事件。
袴田事件、、など、

聞いてほしくない、無言にならざるえない、
肥溜めの臭う事件がけっこうある。

現在の志位委員長など党幹部の
赤い貴族。たち
赤い官僚。たち
は、おどろく豪華な別荘、うなる金の札束。

入党する若者は
知っているのだろうか。。。。
むろん知っている。このネット社会・・
しかし、共産党組織は宗教団体と似ているから、
知っていても、そこに居たいのだろう。

札幌市議員も、議員給与以外に、別途交通費名義で
いただく金はちゃっかりもらい。
札幌市民の返還裁判で市民が勝訴したのに、。
不服で上訴したのだ。
これだって、
共産党市議が我々はもらいませんと言うべきなのに
もらえるものはなんでももらう。と。。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

たしかに
99年の派遣法改正後、非正規雇用労働者の待遇問題など
について国会質問したのは、小池晃議員や小沢和秋議員ら共産党
の議員たちだった。
彼らは法律の名称を「労働者保護法」と改称
することや、派遣業務の対象を縮小することなど、党としての
改正案を提案していた。
しかし、
当時の共産党が組織を挙げて
この問題に取り組んでいたのかとなると、甚だ疑問である。

当時、
小沢和秋議員の秘書だった篠原常一郎氏が振り返る。

「派遣法改正で今後大量の失業者や貧困層が出現するだろうと予測し
、党としてこの問題に取り組むべきだと最初に提案したのは我々です。

ところが、
党の幹部たちの反応はさっぱりで、一様に苦虫を噛み締めた
ような顔をしていました。
というのも、支援対象に野宿者(ホームレス)
を含めたからです。
幹部たちは、野宿者などはルンペンプロレタリアート
であって、相手にすべきではないと言うのです。
彼らは何十年も前の発想で、
ルンプロに対する支援なんていうのは、
(彼らがニセ左翼と呼んでいた)新左翼の連中がやることだ、くらいに
思っていたのでしょう。
そうじゃなくて、時代が変わったんだ、
いまは
誰もが明日はホームレスになるかもしれないのだと、
いくら説明しても理解できない様子でした」

「ウチは慈善団体じゃない」と言い放った党幹部
つまり、
派遣などの非正規雇用労働者問題に取り組んできたのは共産党
のなかでもごく一部であって、党幹部らは派遣法改正など歯牙にもかけて
いなかったのだ。
あまつさえ彼ら党官僚は、「そんな票にもならないこと
をなぜやるんだ。ウチは慈善団体じゃない」とまで言い放ったという。

「共産党に入ればまともな会社には就職できない。運良く入れても出世
できない。そういうリスクを負ってでも人助けがしたいと思って入党した
のに、『ウチは慈善団体じゃない』とは何事か。

それが世の中の風向きが
変わった途端、コロッと変わって『格差是正の日本共産党です』と、
こうです。何たる偽善でしょうか」

篠原氏はそう憤る。

篠原氏は79年に入党。95年に参議院議員(当時)・筆坂秀世氏の
公設秘書となった。
その後、
03年に筆坂氏がセクハラ問題で党の
役職を罷免されると、これに抗議して翌年除名処分を受ける。

篠原氏によれば、
共産党の下部専従の生活は、それこそ「ワーキングプア」
そのものだったという。

「一応給料は出ていましたが、残業代はつかず、ボーナスも出ない。
しかも遅配欠配が多く、交通費などの諸経費は自分で稼げというのが
党の方針でした。だから私も、月に一度沼津の港から届くアジの開きを
トラックに積んで、党員や支援者の家を回って売って歩きました。
給料日前は飯が食えなくて、支援者の家に上がりこんで食べさせて
もらっていました」

その後、
議員秘書となった篠原氏は、当時の不破哲三委員長ら、
党官僚たちの
〝ノーメンクラツーラ(赤い貴族)〟
さながらの
華麗な暮らしぶりを垣間見ることになる。

「不破氏には神奈川県の津久井湖畔にある豪華別荘
(現在は自宅になっている)のほか、全国に複数の別荘があった。
津久井には、護衛、運転手、2人の料理人など、常時5人ほどが
泊まりこんでおり、彼らの住む別棟までありました。彼らは
みな党中央委員会の職員で給与は党から出ていますが、普通だったら
年収1億円以上なければできないような生活でしたよ」

また、
当時の不破氏には国会議員として支給される2000万円ほど
の歳費(うち700万円ほどは党にカンパ)のほか、
年に数点発行される著書の印税もあった。
党員や支持者に売るのだが、内容は
不破氏の講演テープを起こしたものが多く、
実際に書いているのは秘書たちだ。

不破氏ばかりでなく、下部職員が低賃金に苦しむなか、
常任幹部と呼ばれる20名ほどの
最高幹部らも1000万円以上
の年収を得ていたという。

これら篠原氏の証言が本当ならば、
とんだ労働者の味方である。

共産党は、94年に制定された政党交付金を「憲法違反だ」と言って、
受け取りを拒否している。

これを言ったのは故・宮本顕治元委員長
だったと言われており、
「支持政党にかかわらず国民の税金が各党に
配分される政党助成金制度は、
国民の思想・信条の自由を侵している」
というのがその理由だ。

しかし、
志が高いのはまことに結構だが、
その一方で
共産党が現実
にやっていることはどうなのか。

02年、元共産党国会議員秘書で、拉致問題に関わって党を除名された
兵本達吉氏らが
「党ぐるみで組織的、系統的に、しかも長年にわたって
年間何億という資金を国会議員秘書の給与から搾取していた」と、

共産党を東京地検特捜部に告発したことがあった。
兵本氏が89年から
98年まで10年間の給与明細をすべて調べたところ、
参議院から支給された
1億173万円のうち4813万円、つまり半分近くは党に
よって「ピンはね(兵本氏)」されていたという。
しかも、
このような秘書たちの給与からの天引きによって、
最盛時には
年間3億~6億円にも及んだ

〝差額〟の使途は、
一般党員はもちろん、
「カンパ」したことになっている秘書本人にも
一切知らされていなかった。

このときの告発は不起訴処分になったが、
捜査にあたった検察側は
「これで共産党財政の外堀と内堀を埋めることができた。

次は本丸を狙えます」と兵本氏に語っていたという。

ここ最近、
『蟹工船』ブームも手伝って「一気に1万4000人
もの党員が増えた」と怪気炎を上げる日本共産党だが、
前出の篠原氏は
「高齢化が進み、活動家の主力は60代から70代。
亡くなる人も含めて、
実際は減っている数のほうが多いはず」と推測する。

この件について党中央委員会に尋ねたところ、
「1万4000人というのは
入党者が急増したので特別に出した数字であって、
全体の党員数は今年開かれる予定の党大会までわからない」
との回答を得た。

また、
若者の入党者が増えたからといって、
『赤旗』の部数は
かならずしも増えていない。

それもそのはずで、一日1000円
足らずで生活しているワーキングプア層に、日曜版も含めて
4000円近い購読料など払えるはずもないのだ。

今後とも引き続き財政難が予想される日本共産党。
意地を張らずに
「やっぱり政党交付金をください……」と
恥を忍んで素直
に申し出たほうかよろしいのでは?

■■■■■■■■■■■■■■■■■■

▼共産市議が離党届「毎月の上納金で生活に支障」▼
2013/11/14読売新聞

日本共産党相模原市議団(4人)の大田浩(37)が、党への多額の寄付やカンパを事実上強制され、生活に支障をきたしているとして、離党、離団届を出したことが2013/11/13日、分かった。

取材に対し大田浩(37)は、
「年間約300万円も上納させられ、公認時にそんな話は聞いていない」と主張。
党神奈川北部地区委員会は、
「詳細を説明している。党公認で当選した以上、役目を果たすべきだ」としている。

大田浩(37)は2011年4月の市議選で初当選。2013/11/8日に離団届を提出し、11/10日に離党届を党に郵送した。離団届は現在、共産党市議団長預かりになっている。

大田浩(37)によると、納付金は、月約48万円(税引き後)の市議報酬のうち、党費と党への寄付金として毎月約16万円。8月と12月には「夏季・冬季カンパ」として各約17万円、年2回の期末手当(ボーナス)時にも各約40万円を納めており、年間総額は約306万円に上る。

①党費+党へ寄付≒16万円/月⇒合計192万円/年間
②夏季・冬季カンパ≒各17万円⇒合計34万円/年間
③年2回期末上納≒各40万円⇒合計80万円/年間
④国政選挙などの際にも臨時のカンパを求められる

総合計上納金①②③=192+34+80=306万円/年間

相模原市議会局によると、
議長、副議長を除く相模原市議の年間報酬は約1090万円(税引き前)。

大田浩(37)は、
国政選挙などの際にも臨時のカンパを求められるとし、
これらの納付が「事実上の強制」と訴えている。
離党、離団については、「昨年(2012)11月に結婚し、子供ができれば生活できなくなるので決断した」と話し、無所属の1人会派で活動していく考えを示した。

共産党の公認候補は、党員の中から選出され、選挙戦で全面的なバックアップを受ける。
共産党規約は、党の資金に関し、
「党費、党の事業収入および党への個人の寄付などによってまかなう」と記載しており、
「党費は実収入の1%とする」と定めている。

大田浩(37)の離党、離団届提出に対し、
共産党神奈川北部地区委員会の菅野道子副委員長は、
「寄付金などの詳細は擁立する際、本人に伝えている」と説明。
「個人ではなく、党として取り組んだ選挙で当選した以上、党の議員として役目を果たしてほしい。思いとどまるよう話し合いたい」としている。

(2013年11月14日読売新聞)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

大須田勉

スパイ野坂参三の仲間を密告し、帰国、知らん顔で平然と善人ぶり共産党最高幹部101歳の生きるが勝ち

$
0
0


↑写真=不破哲三、宮本顕治、野坂参三=日本共産党の三腐渦↑



■日本共産党の創造者、野坂参三の実像の記録の本■

『闇の男―野坂参三の百年 』
【著】小林 峻一 、 加藤 昭
 出版社 : 文藝春秋


日本共産党の「帝王」とも呼ばれた故・野坂参三を
共産党除名(追放)に追い込んだ一因と言われる
『週刊文春』のレポートを再編した本です。


戦前の日本の共産党弾圧下でそれでも活動していた仲間達を、
今度は自己保身のためにスターリン恐怖政治の下での強制労働、或いは処刑に追い込んだ片棒を担いだ野坂参三という人物の人間の醜さを、

ソ連時代の公文書を元に見事に暴いた渾身の本です。

野坂の「密告」のために人生を破たんさせられた人物が何人も紹介されていますが、やはり印象に残るのは

山本懸蔵(野坂の同志でありながら、野坂の密告により処刑)の
妻・関マツ(「第二章 望郷の女・関マツ」で紹介)でしょう。
夫を追ってソ連に渡ったものの夫が処刑されたりしたため、
貧困の中日本への帰郷だけを願い続け、ありとあらゆる妥協をしたにもかかわらず、

★(おそらく)野坂のために日本への帰国手段を封じられ、
最後は”発狂死”したという過程は悲しく、★

そして主義主張は異なれど権力に執着する人間というのがいかに恐ろしい物であるかをひしひしと感じさせます。


▲▲▲ーーーーーーーーーーーー▲▲▲
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★


■野坂 参三■

1892(明治25)年3月30日生(0歳)
1993(平成5)年11月14日没(101歳)

山口県出身
慶應義塾大學卒
日本共産党に入党
妻、野坂竜
1931(昭和6)年4月 妻とともにソ連に亡命
コミンテルン執行委員会幹部会員となる
ディミトロフ宛の手紙で山本懸蔵の疑惑を告発
①(1937(昭和12)年11月2日: 山本がモスクワでNKVDに逮捕される)
②(1939(昭和14)年3月10日: 山本が銃殺される)
1934(昭和9)年 渡米
第2次世界大戦中は中国の延安にあって中国共産党に協力
戦後帰国
衆議院議員
参議院議員
1958(昭和33)年 日本共産党中央委員会議長就任
1982(昭和57)年 日本共産党名誉議長
1992(平成4)年 山本懸蔵の告発が明るみにでる
1992(平成4)年 日本共産党より除名処分
1993(平成5)年11月14日1510 老衰のため自宅で死去

著作 自伝「風雪の歩み」

NKVD=ソ連の秘密警察内務人民委員部(NKVD)


★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
▲▲▲ーーーーーーーーーーーー▲▲▲


■山本懸蔵(やまもと けんぞう)■

1895年(明治38年)2月20日生 ~ 1939年(昭和14年)3月10日)処刑銃殺

は、
労働運動活動家、日本共産党の活動家。
茨城県鹿島郡矢田部村(現在の神栖市)生まれ。
しばしば「山懸」(やまけん)の略称で呼ばれた。


1922年(大正11)に日本共産党(第一次共産党)入党。
1923年(大正12)6月5日の第一次共産党検挙事件に際してソ連へ密航。
1924年(大正13)帰国。
1928年(昭和3)2月20日の第1回普通選挙では、労働農民党候補として北海道1区から立候補した[1]が落選。
同年3月15日の 三・一五事件(共産党関係者一斉弾圧)では自宅療養、
ほどなく警察の監視下を脱出し、
同年6月にソ連へ密航。

1936年(昭和11)2月に野坂参三と連名で「日本の共産主義者へのてがみ」を発表。スターリンの大粛清が吹き荒れる
1937年(昭和12)11月2日、ソ連の秘密警察内務人民委員部(NKVD)により逮捕。1939年(昭和14)3月10日処刑された。



ソ連崩壊の1992年、
ソ連共産党の保管文書からソ連共産党・コミンテルン関係の機密文書の公開に伴い、山本の逮捕が、野坂参三による密告に基づいて行なわれた事を記した文章が発見された。



発見された資料をもとに、
『週刊文春』誌上に小林峻一・加藤昭らによる連載
「野坂参三疑惑レポート「同士を売った密告の手紙」」
が掲載される(翌年単行本化)。
1992年(平成4)12月、日本共産党は野坂を除名処分とした。


なお
加藤哲郎の調査によれば、
山本自身も、同時期にソ連に亡命していた数名の日本人、
勝野金政、
根本辰(ねもと・とき)、
国崎定洞(くにざき・ていどう)、
伊藤政之助ら
をスパイと疑い、ソ連秘密警察やコミンテルン国際統制委員会へ
密告ないし告発するなどしていたという


また和田春樹の調査により、
野坂による山本密告とほぼ同時期に、
山本自身も野坂を密告する準備を進めていた事が判明している。


▲▲▲ーーーーーーーーーーーー▲▲▲
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★


ソ連解体後、表に出はじめた秘密文書を、
日本の週刊誌がモスクワで買い込んできて、
野坂がコミンテルンで活動していた当時、保身のため、同志を日本の警察のスパイだとする偽りの告発をおこない、死にいたらしめたという資料を発表したこと。


私たちは、モスクワに人を派遣して関係資料を入手するなど独自の調査をするとともに、

①野坂当人にも確かめ、野坂自身、偽りの告発という事実を認めたので、中央委員会総会(1992年12月)で、除名を決定したこと。

②その後、さらに、延安から日本への帰国の途中、
野坂は、秘密にモスクワに呼ばれ、赤軍情報総局に直結する工作員という任務をもって、日本に帰国した事実が明らかになったこと。
この事実も、野坂が認めたこと。



<ディミトロフ>
私は、この話を、他国の共産党にたいするソ連の密室的な支配の陰謀と性格づけて語った。そのなかで、ヒトラー政権下の法廷闘争でナチの告発者たちを論破して世界に名をはせ、コミンテルンの書記長となったディミトロフが、コミンテルンの解散(1943年)とともに、一部長(国際情報部長)としてソ連共産党の組織に組みこまれ、ソ連のために秘密工作者を選定する役目を引き受けていたこと、



③野坂がソ連の赤軍情報部門につながる工作者となったのも、このディミトロフが人選してスターリンに推薦した結果であった。


★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
▲▲▲ーーーーーーーーーーーー▲▲▲


■日本共産党の獅子身中の虫:野坂参三■

野坂は実は,旧日本帝国と日本の皇室を守るために,旧治安維持法に真っ向から違反する政治結社:日本共産党に幹部としてもぐりこみ,それこそ「獅子身中の虫」となって,社会主義思想革命の実践活動を内部から瓦解させる役目を忠実に果たしてきた。野坂参三に隠された基本的な任務は,本当はこちらにあったのである。



野坂参三はなかでも,日本共産党の内部に巣くう最大の悪害虫であった。
この党が特定の活動をするたびに,あるいは
ソ連で教育した党員を日本に送りこむたびに,
間違いなく繰りかえしていつも,その関係者がまとめてごっそり検挙されていた。

そうした検挙を確実にさせるために必要な情報を,
参三は日本帝国当局側に提供しつづけきた。
彼はそのように汚ない「忍者のような役目」を忠実に遂行してきた。
野坂参三の家系図に出ている人物のうち,
政府の高官・重職を歴任していた次田大三郎は,野坂の義兄である。


100歳にもなったときの野坂を除名した日本共産党のおめでたさは,ことばには形容できないほどである。だが,そのことよりも,日本帝国がわがこのような人物を育て,共産党のなかに静かに扶植しておき,この党の活動をずっと監視する装置としてあれこれ利用してもきた歴史に,われわれは注目すべきである。




■ 思想よりも家系のしがらみのなかの野坂参三■

 ■★ 日本帝国の手先だった野坂参三★■

問題の焦点は,敗戦直後に日本の天皇制を護持する機能を客観的に発揮してきた人物が,なんと,つい最近まで天皇・天皇制を完全に否定してきた日本共産党の最高幹部:野坂参三であったところに向けられる。

日本共産党の政治目標(綱領)は,2004年に開催した党大会以前までは「天皇・天皇制を絶対に認めない」という社会主義変革・革命思想にしたがい,樹立・決定されていた。ところが,この党の最高幹部を務めてきた人間が,すでに戦前から,それとはまったく逆方向の考えを秘かに抱きながら,しかも同時に,この党を絶えず破壊すべく「国家のためのスパイ活動」にも従事してきたのである。この歴史的な事実は,「〈国家悪〉の手先」を超絶的な次元で演じていた野坂が〈大した役者〉であったことを物語っている。



しかし,なぜ
野坂参三はそのような役割をあえて担ってきたのか? 
『実録 野坂参三』はその背景として家族関係を中心に,これまではまったく解明されていなかった問題領域を,いいかえれば,
野坂の謀略活動をつうじて日本の「共産主義運動」の秘密を再検討したのである。


野坂が日本の天皇制国家機関・アメリカ・ソ連・中国共産党の4重スパイであったことは間違いない,と
『実録 野坂参三』は断定する。

しかも,天皇制は,地球次元で私物化を図る国際謀略機関によって守られている。野坂はこの国際謀略機関の代理人(エージェント)の一員であったと考えるべきである。これが結論である
(以上2つの段落は,同書,16頁参照)。



それにしても,このような人物を党の幹部・党首に長く戴いてきた日本共産党は,ずいぶん長い期間,なにもしらずに「いい面の皮」状態に置かれてきた。
野坂参三を除名すればそれで済まされる,というような問題=党史の展開ではない,深刻で重大な「過去の現実」が連綿と続いてきたのである。




■『実録 野坂参三』において興味ある見解は,
大約すれば,こういうものである。

戦前体制のなかでは,「日本共産党」という反体制・非合法政党に向けてあらゆる反体制派の人びとを引き寄せ,ここに集合させておく。そして,その過程においては政治的な操作・組織的な謀略・社会的な陰謀などを使いながら,反体制の思想・立場に立つ人びとを,この共産党を寄場として一網打尽にしていく,というものである。
野坂はそのためにこそ,「旧日本帝国のために働いた」人間であったのである。


野坂はあたかも,イカ釣り漁船に乗り,集魚灯を操って,イカをおびき寄せ,このイカを釣りあげる「船長:漁撈長のような役割」を果たしてきたわけである。
帰る港で水揚げを納める網元は,もちろん旧日本帝国治安当局であった。


戦前〔あるいは戦後も〕において,日本共産党員の個人的情報は漏れなく,
野坂の手を介して”治安当局”にわたっていたことになる。



日本共産党が敗戦後,天皇・天皇制を当面存続させる意見を披露したが,これももっぱら野坂の主張に依拠していた。東京裁判に昭和天皇が出廷しないで済むように野坂は努力した。

野坂は生きているあいだ,天皇・天皇制の支持者であった。野坂が大正前期に学んだ慶応義塾理財科では,小泉信三に卒業論文〔社会主義思想に関する〕を提出していた。


小泉信三が日本の天皇家とどのくらい親しくも忠実な間柄にあったかは,平成天皇に現在の配偶者を引き合わせる〈任務〉を成就したことからも明らかである。小泉が欧米〔英米〕諸国の特定筋と一定の関係を保持していたことも推定される。信三は,皇太子時代における明仁の師父としてその養育を担当した人物である。


野坂はこの小泉のもとで,「敵をよくしるために」社会主義の勉強をし,卒業論文も書いたのである。けっして,社会主義革命を達成しようと慶応義塾で勉学に励んだのではない。


■家や家族制度にもとづく経済・社会研究の必要性■

『実録 野坂参三』「あとがき」は,「日本の社会で生活していくには,人間関係が大切であり,とくに長子相続制の支配していた明治・大正・昭和の時代には,家系は重要な要素であり,人間活動を研究対象にする社会科学において家系図の研究は,あくまでも研究対象に成り得るものである」という。そうしてこそ「野坂参三が一生涯謀略活動を行い得た背景を知る」ことができ,「また,天皇制支配国家体制およぼ国際謀略機関のエージェントの一員として謀略活動に従事してきた野坂参三の人生を見直してみること」もできる,と主張している(457頁)。




野坂は「スターリンの粛清に協力した張本人である」。
「アメリカより強制退去させられた日系アメリカ人の銃殺に関係した」。
ソ連で、、、



■★野坂は、★■
「山本懸蔵を密告し」ただけでなく,
その「妻・関マツ」を「狂死に近い悲惨な末期に追いやった」。

夫を追ってソ連に渡ったものの夫が処刑されたりしたため、
貧困の中、”日本への帰郷だけを願い続け”、、
ありとあらゆる妥協をしたにもかかわらず、

★野坂の手によって、に日本への帰国手段をことごとく封じられ、
最後は”発狂死”したという過程はすさまじい★


その野坂参三の
悪魔よりまさる超越した非人さに、仮面の奥の深さに
101歳腐肉の最期を見る。

この関マツ、を足でグチャぐちやに踏みつけても
何も感じない、帰国後日本共産党を創りその帝王で君臨して
金に飢え、名誉に飢え、101歳まで生きたかった。
それが日本共産党の泉なのです。




「アメリカで日本の公安警察のスパイであったジョー・小出を使っていた」
(『実録 野坂参三』360-361頁)。



日本・ソ連・中国・アメリカの各国間を動きまわり,八面六臂の大活躍とでも形容すべきスパイ活動をしてきた野坂参三であった。
それにしても,野坂がそのように世界を股にかけて縦横無尽に活動できた背景事情,いいかえれば,それを可能にする国際横断的な協力組織が控えていたことに気づくべきである。


★★★★★★★★★★★

大須田勉

日本共産党袴田里見事件/1977年勃発・組織をもってして人間攻撃/組織を防衛する

$
0
0


最前列3人=宮本・野坂・袴田里見↑

■日本共産党袴田里見事件■

組織が、生の人間の上位にある。
と言う証明事件。

袴田里見!日本共産党に楯突くとは50億年早い。と言う事件
(太陽系=あと50億年で爆発します)



袴田里見(はかまだ さとみ)、
(1904年(明治37年)8月11日 ~ 1990年(平成2年)5月10日=86歳没)

は、大正、昭和期の社会運動家、元日本共産党の幹部。
戦前の非合法政党(第二次共産党)時代以来の共産党活動家で、
戦後は党副委員長となった。
1977年、党から規律違反により除名処分を受けた。



■履歴書■
●1904年(明治37年)8月11日 - 青森県上北郡下田村(現在のおいらせ町)に生まれる。

●1919年(大正8年) - 高等小学校を卒業後、上京して攻玉社中学に入学するが中退。電信労働者、製缶工などの職に就きながら労働運動に関わるようになり、
東京合同労働組合に入り活躍する。

●1925年(大正14年) - ソビエト連邦に渡り、
モスクワの東方勤労者共産大学(クートヴェ)に学ぶ。

●1926年(昭和元年)[元号要検証] - ソ連共産党に入党。

●1927年(昭和2年) - クートヴェを卒業し、帰国。
”宮本顕治”らと日本共産党の再建に着手する。
しかし、治安維持法違反で検挙され、堺刑務所に服役する。

●1932年(昭和7年) - 釈放後、地下に潜伏し東京市委員など共産党運動に取り組む。
昭和8年(1933年)日本共産党中央委員に選出される。

●1935年(昭和10年) -”宮本顕治”などの幹部が次々逮捕される中、
唯一獄外にいた共産党最後の中央委員であったが、本郷での全協との街頭連絡のさなか再び逮捕される。獄中では非転向を貫く。この逮捕を報道した新聞は最後の大物と称した。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

終戦後 - 他の共産党員とともに釈放。

以降、中央委員、政治局員、幹部会員を歴任。

●1959年には参議院議員選挙に立候補するが落選する。

●1970年(昭和45年) - 党副委員長に就任。この間に党を代表してソ連や中国を訪問。


ーーーーーーーーーーーーーーー


■日本共産党袴田里見事件の勃発■

日本共産党の世間に見せられない肥溜め欲望の悪魔男の蓋を
袴田里見が開く。



しかし、善人心では組織は作れない。
人を人と思わず、地獄の滴る血を飲み干し、食い殺す様な悪魔心を持たずして
組織は作れない。から、あって当然である。
人民をブルトーザで、踏み潰しその潰れた肉を土台にして、
組織を建てる心のない者は、組織構成員になるべきではない。

しからば、
赤攻撃・地獄のリンチ・投獄にあろうと、
日本共産党は、たとえ人類が絶滅しても
共産党生物種として生き残る。




●1977年(昭和52年) - ”日本共産党査問リンチ事件”に関連して
週刊誌などで虚偽により、■党や宮本顕治を攻撃した■。

これは党規約の「党内の問題を党外に持ち出さない」という基本原則上問題となり、

本人も党の調査に応じなかったことから、
●1977年12月30日の党中央統制委員会で本人欠席のまま、
「規律違反(党外からの党攻撃)」を理由に除名処分を受ける。

●1978年(昭和53年) - 11月に、
⇒新潮社から手記暴露本「昨日の同志宮本顕治へ」を出版し、

反共層を中心に話題を呼んだ。
また
⇒1978年12月には「私の戦後史」を朝日新聞社で出版した。

●1988年(昭和63年) - 袴田里見が除名後も党と関係が全くなくなったにも関わらず依然として居住していた、

共産党所有の家屋の明け渡しをめぐる訴訟(共産党袴田事件)で、
最高裁判所が袴田の上告を棄却し、敗訴が確定。

●1990年(平成2年)5月10日 - 86歳死去。




■エピソード■

没後公開されたソ連の秘密文書により、
野坂参三(後に彼も重大な規律違反が判明し当人もそれを認めたため除名処分)、

とともにソ連からの秘密の接触がしばしばあったことが判明した。

実は袴田里見は日本共産党を除名される前にも、
野坂参三に関する疑惑を暴露している。

日本共産党は「反共毒素一掃キャンペーン」として多数のパンフレットや書籍を発行していた。
これは「現役党幹部が叛旗を翻した」ことによるダメージの一掃、と推測されるが、
野坂参三の疑惑を党自体も承知していて、それを隠蔽したいが為であった。
という意見もあるが、

当時は、ソ連秘密文書はなかったわけであり、
事実と道理に基づいて問題点の解決にあたるという基本方針上からは
問題のないことがらであった。




弟の袴田陸奥男は、ソ連に亡命した日本共産党員。

青山学院大学教授の袴田茂樹と、
ロシアの政治家イリーナ・ムツオヴナ・ハカマダは
袴田陸奥男の息子と娘である。

すなわち袴田里見からみれば甥と姪になる。
共産党除名当時、
袴田里見は党が所有する家屋に居住しており、
除名により党が明け渡しを求めて袴田里見を相手取って民事訴訟を起こした。
除名処分という政党の内部審査が司法審査に馴染むかが争点となったが、
最終的に裁判所は党側の主張を認めた。

この点では、
組織が個人に勝った。と言える。

ーーーーーーーーーーーーー

大須田勉

元日本共産党幹部=湊靖人&湊ます子自宅2階で湊伸治らが女子高生を肉潰しリンチ虐殺害

$
0
0
↑県立八潮南高校3年吉田順子(当時17歳)↑
 
↓足立区綾瀬女子高生誘拐監禁集団リンチ虐殺コンクリート詰め死体遺棄事件↓
http://blog.goo.ne.jp/xdr123/e/e62e97226587239549f9ab34a419d3e3

リンチ虐殺現場=元日本共産党幹部=湊夫婦自宅2階
湊靖人(69歳)&湊ます子(68歳)=2010年現在年齢
ーーーーーーーーーーーーーーー
 
事件番号=平成2う1058
遺体発見=1989年H1年3月29日

犯人顔の画像=google画像にある。
A横山裕史(40)=(旧宮野裕史)
B神作譲(39)=(旧小倉譲)
C湊伸治(38)
D渡邊泰史(39)
2010年12月末.現在の年齢
 
①宮野 裕史(A)みやのひろふみ
(1970.04.30)
主犯格。懲役20年の刑で服役し。
■2008年平成20年=主犯格A(宮野裕史)出所。
=関西地方の保護司と養子縁組済み=横山裕史
横山 裕史(旧姓は宮野)=S45年4月30日生=主犯
養子縁組で改姓、160cm、H19年5月川口市で解体業。
 
中学時代は軽量級の柔道の選手として活躍。身長160cmと小柄だがガッシリとした体格。付属男子高校中退。見習いタイル工として働き始めるが暴力団員と知り合い、パシリとなる

・父親(当時47歳)…証券マンを経て証券外務員に。  
・母親(当時47歳)…私大音楽学部卒業後、ピアノ教室の講師に。  
・妹…事件当時11歳 

事件後、両親ともに辞職。
妹の家庭教師の日記がHPで公開されていた。
当時から父は愛人宅にいて、家庭は崩壊していおり、夫婦仲に問題があった。小学校の
頃には既に問題行動があった。話し上手で面白いという評判もある。小5でパンチパー
マ。ヌンチャク・木刀を持ち小学校に「殴り込み」をしたことがある。「悪いことはか
っこいい」と思っていたが、小学6年生の時に出来た勉強好きの親友に影響され真面目にな
る。卒業文集には「少年院の院長になりたい。オレ、悪いことをいっぱいした。万引き、
ケンカ、たいがいのことはやった。だから、悪いことをやった奴の気持ちがわかる。オ
レなら非行少年と呼ばれてる連中を立ち直らせてやれる。オレに向いてるのはそういう
仕事だと思う」

中学入学と同時に周囲の人のすすめで、柔道部に入部。体型は小柄(160cm)だったが、
練習熱心で3年の時に都大会で2位になり、東海大付属高へ推薦入学。高校の柔道部の先
輩・顧問に体罰を受ける。その内容はAの父親が裁判所に訴えたほど酷く、殺虫剤にライ
ターをかざしあぶるなど度を越したものだった。 憂さ晴らしに街で手当たり次第に喧嘩
を売るようになり、家でも物を壊し、母親に肋骨を折る重傷を負わせたこともある。

高校を中退、中学の頃から付き合っていた同級生(D渡邊泰史の姉)と同棲。
18になったら結婚しようと1年半、タイル工として真面目に働くが、自動車学校の合宿場で知り合った暴力団員と知り合い銀座の生花商でアルバイト。やめられる雰囲気でなく、現実逃避するためにシンナーを始める。シンナーを吸っている時にしか楽しいと感じない生活。
暴力団の組織「極青会」を作る。
 
②小倉 譲(B)おぐらじょう
(神作と改姓して神作譲)かみさくじょう
(1971.05.11)
サブリーダー。すでに刑務所から出所。 
主犯格の1年後輩。180cmを越す長身。検事や弁護士の質問に太い声でハッキリ答える。  

・父親(当時42歳)…運送会社の配達員。長身。愛人との間に2人の子供がいるが、母親との籍はなぜかそのまま。 
・母親=小倉 悦子(当時43歳)…都内デパート勤務を経て、結婚後は得意だった洋裁で内職。父親が女に走り別居。その後水商売にて一家の大黒柱に。 
・姉(当時20歳)…私立高校卒業後、都内会社員。

小倉という姓でしたが、女子高生殺害事件のあと、
埼玉県の篤志家(トクシカ=慈善活動する人)、神作某氏の戸籍上の養子になりました。
神作某氏は少年犯罪者の更生に力を入れている人で、Bを戸籍上の養子にする事によって姓を変えさせ、社会復帰しやすくなるよう配慮をした人です。そういう篤志家の誠意をも踏みにじったのです。

2004年6月神作譲の名前で再犯し逮捕された(事件記事=週刊アサヒ芸能2004.7.22号)。
この男はこの事件に関して無反省な発言を繰り返し、類似の事件を引き起こした
■2005年平成17年5月13日
神作譲は控訴を取り下げ、懲役4年確定。

③湊 伸治(C)みなとしんじ
(1972.12.16)
犯行現場の部屋の提供者。すでに刑務所から出所。 
JR常磐線綾瀬駅から北へ15分ほど歩いた住宅街。玄関と二階ベランダが南欧風、3DKの建て売り住宅。約百平方メートルの敷地いっぱいに建っていて、両隣の家とは人がやっと入れるほどの狭さ。近くに小さな公園有り。事件の13年前、一家は同じ足立区内から引っ越してきた。  
「足立の学習院」と言われたエリート中学卒。その後、都内では唯一の化学専門工業学校に進学。  

・父親=湊靖人(当時48歳)…東京湾近く、隅田川沿いに近い町工場が密集した一角にある診療所にて事務長。入院設備は無いが七つの診療科目を備えた大きな診療所。仕事と酒で子育てはすべて母親任せ。  
・母親=湊ます子(当時47歳)…父親と同じ診療所にて看護婦主任を勤める。事件後、23年間勤めた診療所を辞職。

●この両親が共産党員であったため、
警察はマスコミを恐れてなかなか家に踏み込めなかった。
仕事一筋の父親はきびしい体罰をふるった。少年が決められた家事の分担をしないこと
などを母親から相談されると、少年をたたき起こして叱った。泣いて逃げる少年を追い
かけて殴ったり、深夜外へ引きずり出して、公園を走らせたこともある。

父親は、毎晩酒を飲んで帰宅した。少年とその兄(18)は「週に1回はなぐられていた。
ぞっとするほど怖かった」と、弁護士に証言。父親は、「月に1度いや、年に数回しか
なぐった覚えはない」と述べている。父親が体罰をしなくなったころ、C少年の家庭内暴
力がはじまった。

通っていた公立中学校は進学名門校だったが、ここでも教師の体罰が横行していた。生
徒は毎日のようになぐられた。C少年も、バスケット部顧問の女性教師になぐられ退部。
中学でAの2年後輩。工業高校に入るが2学期には中退。
この事件が発覚した際、別件で既に栃木の少年院に送られていた。東京に呼び戻し逮捕。

・湊Cの兄=湊 恒治(当時17歳)…小倉譲(サブリーダー)と中学の同級生。
ほとんど一部始終を目撃し、時には食事を運んでいたにも関わらず事件発覚まで沈黙を守る。

湊の両親は2人とも共産党幹部。
警察が逮捕状を持っていった段階で 速攻で弁護士を用意し、
家宅捜索も弁護士立ち会いの元で行われた。

党は、事件後すぐの段階で湊の両親を除名し、
「共産党とは一切関係がありません」と発表。
そして、「監禁という認識がなかった」「少女は帰る気がなかった」
等の湊の母親の自己弁護的記事を赤旗によって
1989年5月20日~27日まで連載コラムで積極的にバックアップをした。
湊靖人&湊ます子への援護記事文。

➽共産党・橋本敦議員(参議院)の発言
さまざまな少年事件は、社会全体の構造の歪みや 受験戦争などの教育の歪みといった背景の中で おきてくるものです。
被害者による報復主義には反対ですし、20歳未満の少年は まだまだ未熟ですから、教育し、更生させていく必要が あるんです。(インタビューより)

④渡邊 泰史(D)わたなべやすふみ=監視役
(1971.12.18)
刑事裁判で、実刑判決を受けた少年が収容されている川越少年刑務所(埼玉 川越市)。
ここに、彼女の監視役だったD(渡邊)が服役する。
D(渡邊)は11月の強姦に加わり、
最後の暴行では彼女を鉄球で、何度も殴るなどしている。

1996年11月=D(渡邊)が仮出獄
少年院でいじめに合い、現在引きこもり症候群。 

4人の少年達の中では一番痩せていて、声が小さく、右後頭部、中学教師の体罰を受け出来た10円玉程の白髪が、公判時にはこぶし大にまで広がっていた。定時制の工業高校へ進むが1週間で行かなくなる。ファミコンが好き。  

・父親:幼少時(5歳)に離婚。その後まもなく交通事故で死亡。  
・母親(当時44歳):元美容師。離婚後、生活保護を受けながら時計部品の工場でパート勤務。 
・姉(当時18歳):母親との面会拒否の為、姉が面会・差し入れを続けていた。 
姉⇒宮野裕史(A)と付き合っていた=同棲。

仮出獄後:
小さなアパートでの二人暮らし。D(渡邊)はふすまに鍵をかけ、6畳の部屋に閉じこもっているという。母親は3畳の台所で寝起きをし、親子の会話はほとんどない。55歳になる母親は、事件後、仕事を3回変わった。親戚や近所とも、ほとんど付き合いはなく、人目を避けるように暮らしている。
渡邊 泰史=S46年12月18日生
横須賀市金沢区六浦東OO住宅に母ヤスと2人暮らし

⑤中村 高次(E)なかむらこうじ
A宮野、B小倉、C湊からささいなことでリンチにあう。
現在は地元スナックでこの事件のことを面白おかしく語る無反省人間。

⑥伊原真一(F)いはらしんいち
家庭裁判所での審判の結果、伊原 は半年間の少年院送致になった。
北アルプスの麓、長野県穂高町に初等中等少年院 有明高原寮はある。
ここは、短期間で更生が可能とされる少年を収容している。
鉄格子や鍵はなく、全国でも唯一の完全な開放施設だ。
伊原は、ここで半年間を過ごすことになる。
1989年5月=入院
1989年秋=仮退院
現在は建築会社で働く

1994年に結婚 事件のことをすべて話したという
伊原= 最初はやっぱりビックリして(今の嫁が)、何日か会わない日が続いたんですけど……彼女も悩んだところがあったんでしょうけど……今の自分を見ててくれる部分もあって……。
そして、子供(娘)が生まれた
新聞配達員を経て、某建築会社で社員として働いている

⑦湊Cの兄=湊 恒治(兄、1972年S47年1月21日生)=(G)
 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 
■日本共産党=橋本敦、と言う人物■
生年月日=1928年8月23日(現在82歳)
出生地=大阪府
出身校=京都大学
現職=弁護士
所属政党=日本共産党
称号=日本共産党永年党員=これで、党からの年金生活の保証で安泰。
選挙区=大阪府選挙区
当選回数=4回
任期=1974年7月8日~1998年7月25日

●1928年大阪に生まれた。
●1951年京都大学法学部を卒業。
●1957年より弁護士を開業する。
●1974年、大阪市長選挙に落選後、
●日本共産党のすすめにより参議院大阪選挙区で立候補、初当選。以後当選4回。

●ロッキード事件の調査のために訪米し、
共産党国会議員団の代表(橋本敦)として疑獄事件追及に尽力する。

●1987年、大韓航空機爆破事件を受けて北朝鮮の拉致に疑惑を感じ、橋本敦は調査を始める。
●1988年(昭和63年)3月26日、参議院予算委員会において日本人拉致問題に関する質問をして国家公安委員長梶山静六から北朝鮮による関与が濃厚とする政府答弁を初めて橋本敦は引き出す。

しかし、
①失踪問題を国会で初めて取り上げたのは、
1980年、公明党の”和泉照雄”。
②北朝鮮拉致問題を国会で初めて取り上げたのは、
1988年1月の民社党中央執行委員長”塚本三郎”

●2002年、橋本敦のかつての秘書兵本達吉から、
「拉致事件の解明を妨害してきた張本人」だと非難されるが橋本はこれに反論した。
参議院議員の任期満了に伴い、議員生活を終える。
現在は大阪府在住で、北大阪総合法律事務所にて弁護士活動をしている。

<橋本敦と兵本達吉との争い>、
■兵本の告発の主な内容とそれに対する橋本の反論■
①兵本は、「私を除名したのは拉致問題解明の妨害」だと主張している。
②これにたいして橋本は、「98年3月の時点で兵本は定年だった。兵本をやめさせたいのであればそこでやめさせればよかっただけの話だ。しかし私は定年延長の手続きをしている。
除名の原因は5月に兵本が、
警視庁警備公安警察官に自分の採用を事実上依頼する対応をしたことである。」
と反論している。
③兵本は、「私が拉致の解明のために出張をしようとすると橋本にとめられた事があった」
と主張している。
④これに対して橋本は、「その件は党議員団が行うべき調査活動というようなものではなかったので止めただけで、拉致解明を妨害する意図などない」と反論している。
⑤兵本は、「橋本の質問内容はほとんど私が書いたもので、橋本はそれを読み上げただけ」と主張している。
⑥これに対して橋本は、「拉致問題を取り上げようと言ったのは自分であるし、原稿も秘書の資料を踏まえて私が書いたもの」と反論している。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

女子高生コンクリート詰め殺人事件の神作譲(当時小倉譲17歳)が凶暴事件で逮捕された

👇《週刊アサヒ芸能 2004.7.22号》原文のママ👇
”女子高生コンクリ詰め殺人犯、再逮捕直前の「野獣捨てゼリフ」”

逮捕監禁致傷容疑で、6月4日に警視庁竹の塚署に逮捕されたのは、自称・コンピュータ会社アルバイトの神作譲被告(33)。

実は、神作被告は15年前、少年犯罪史上に残る「綾瀬・女子高生コンクリート詰め殺人事件」のサブリーダー役として、世間を震撼させた人物である。犯行当時17歳だった神作被告はその後、懲役5年以上10年以下の不定期刑が確定した。
ところが、刑期を終えた神作被告は、更正どころか、さらに凶暴性を増して地元に舞い戻ってきていたのだ。

今回の事件は、5月19日の深夜2時ごろに発生した。

東京・足立区に住む被害者のAさんが語る。
「もともとヤツ(神作)は、私が働いている職場のお客さんの紹介で知り合ったんです。確か、去年の暮れごろでした。190センチ近くある長身で、派手な金髪に派手なジャージ。その筋の人という雰囲気があった。実際、ヤツは『オレはヤクザだ』と自慢げに話していたし、あまりかかわりあいたくないと思っていました」

しかし、神作被告は、Aさんと同僚のBさんを紹介されるやいなや、すぐに2人の携帯電話の番号を聞き出したという。
2人が、神作被告の“正体”を知ったのは、今年4月上旬のことだった。そのとき神作被告は、AさんとBさんが一緒に暮らす社宅の前で深夜、待ち伏せをしていた。

Bさんが振り返る。
「ヤツは部屋に上がると、帰るまでずっと『自分がいかに怖いヤツか』という自慢話を繰り返した。最初に『オレは10年間、(刑務所に)入っていたんだ』と切り出すと、一気にまくしたてた。そして、『10何年前にこの近くで起きた大きい事件って覚えているだろ。それの犯人はオレなんだ』と、具体的な事件名こそあげないものの、あのコンクリート詰め殺人事件をにおわせていた。そして、事あるごとに『わかるだろ』とこちらに同意を求めるんです」

ちなみに「コンクリート詰め殺人」の発端となる事件が発生したのは、88年11月25日のこと。少年グループがバイト帰りの女子高生を拉致し、メンバーの少年の自宅2階に監禁。複数の少年がかわるがわる陵辱と暴力の限りを尽くし、約1ヵ月半後に女子高生を死に追いやり、死体をコンクリート詰めにして捨て去った―――。

このおぞましい事件の“真相”を神作被告は、
時折笑顔を浮かべながら語っていたというのだ。

Aさんが振り返る。
「アイツは、事件のことを得意げに話していました。『女が死んでいるのを確かめたのはオレなんだ。タバコに火をつけて女の口に近づけても、タバコの煙がまっすぐ上っていった。それで死んだのを確認した』とか、『あのときに後輩を呼んだのはオレなんだ。だから本当はオレが主犯なんだ』とまで言っていました。」

神作被告は、事細かに暴行現場の模様を話した。タバコを被害者の体に押しつけたり、髪の毛を切ったりといった、15年前の事件の記憶を鮮明に覚えている様子だったというのだ。そして、一とおり事件について話したかと思うと、「あんときは楽しかった」と、懐かしそうに振り返ったという。

Aさんの話。
「ヤツは、『オレは刑務所で悟ったんだ。警察や検察にしても、マスメディアも、ダマすのは簡単だ』とうそぶいていた。そして『マスメディアは自分の味方だ。警察や検察に対しても、自分を作り上げて相手を同情させれば、すぐに(刑務所から)出てこられる。精神病の振りをすればすぐに出られる』と言って、まったく反省した様子はなかった」

そして事件前日の5月18日、Aさんの携帯電話に、神作被告から怒りの電話がかかってきたという。
「内容はよくわからないんですが、すごい剣幕で『仕事終わったら電話しろ』とどなっていた。そして、仕事が終わって深夜に帰宅すると、家の前に神作のセルシオが・・・・。おそるおそる近づくと、いきなり運転席から出てきて『女、取っただろ』と因縁をつけ、何十発も殴りつけてきたんです」(前出・Aさん)

事情のわからないAさんは、不意のパンチになすすべもなかった。一緒にいたBさんも茫然とするだけだったという。

Bさんが話す。
「すぐにAの顔は血だらけになった。神作は『オレの情報筋から入っているんだよ』と叫びながら殴り続けた。そしてヤツはトランクから金属バットを出して威嚇すると、そのままAを車のトランクに押し込んで、あっという間に逃げてしまったんです」

一方のAさんは、生命の危険まで感じたという。
「前の事件の話も聞いていたので、殺されると思った。あるスナックの前で降ろされて中に監禁されてからも数十発殴られ、もうひたすら謝るしかなかった。服はもう血だらけ。神作は『綾瀬の事件では1人殺しているんだ。1人殺しても2人殺しても同じだ』と言って、路上でよりも激しく殴ってくるんです」

このスナックは、神作被告の母親が経営している店だった。
そして朝7時ごろになってようやくAさんは解放された。しかし、Bさんに迎えに来てもらい帰路についたAさんに、神作被告から次のような脅迫電話がかかってきた。「今回はこんなもんで済んだけど、今度はもっとエスカレートするからな」

すぐに、Aさんは最寄りの竹の塚署に駆け込んだという。
まさに野獣としか言いようがない言動ばかりだが、神作被告の暮らしぶりはどんなものだったのか。

「神作被告は服役中に両親が離婚したこともあり、姓を変更していた。そのため、周囲でも大事件の当事者としてあまり知られていなかった。約5年前に出所後、アルバイトをしながら母親と住み、埼玉県八潮市にある自宅1階の焼き肉店を手伝っていたようです」(社会部記者)

近所の住人が言う。
「地元では、あまり15年前の事件のことを知っている人もおらず、お店もまあまあ、はやっていた。男の子(神作被告)は派手な感じだったけど、礼儀正しかった」

ところが、母親が経営するスナックが繁盛し、人手が足りなくなった焼き肉店は数年前に閉店。神作被告はその後、職を転々とした。

捜査関係者が語る。
「神作被告はある広域組織に出入りするようになり、繁華街にワゴン車で乗りつけて、花やフルーツを販売する仕事をしていたようだ。また、15年前の事件についても、酒の席でたびたび周囲に話したりしていた」

事件直後には、被害者の女子高生の冥福を祈り、連日写経をしていたとも伝えられた神作被告。しかし、出所後の彼の行動からは、反省する様子はまったくうかがえない。

当時、コンクリート詰め殺人事件を取材したジャーナリストがこう証言する。
「逮捕された4人の少年のうち、主犯を除いた3人がすでに出所しましたが、神作被告以外は行方がわからない状況。ただ、監禁場所を提供した少年は、すでに地方で家庭を築いているという話はある。また、別の少年は少年院のイジメが原因で引きこもりになり、彼らの消息を追った報道番組に出演後は、行方不明になっている。主犯格の少年は逮捕当初こそ、被害者女性の霊におびえたりしていたそうですが、今では刑務所内でも、一目置かれる存在になっているとか。少年の更正という点では、はなはだ疑問が残る状況です」

さらに地元関係者からは、こんな話も伝わってくる。
「当時、取り調べを受けたものの、逮捕されなかった少年が何人もいる。その中には、いまだに地元で当時の事件を自慢げに話したり、『実はビデオまで撮影していた』などとうそぶくヤツまでいる。これでは、惨殺された女子高生も報われません」

今回、暴行被害にあったAさんも怒りを隠さない。
「正直言って、神作には当時の事件に関して、まったく反省の様子が見えなかった。重大な犯罪を起こした少年が更正するなんて大ウソですよ。今度こそ、できるだけ長く社会に戻ってきてほしくない」

しかし、逮捕監禁致傷の罪では、最高でも懲役10年。“野獣”が再び放たれるのは、予想以上に早いのだ。

👆《週刊アサヒ芸能 2004.7.22号》👆
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
大須田勉

日本共産党の代々木病院精神科へ強制収容隔離・まず1桁政党でも十分幸せ・志位和夫セレブ生活

$
0
0

12000文字数

↑兵本達吉写真

日本共産党や最高指導者への批判者や異分子を
東京勤労者医療会代々木病院精神科、
に送りこみ精神医療を懲罰に乱用する日本共産党(2000年告発事件)
日本共産党反分子囲い込み戦略=代々木病院精神科=特別収容所棟
月刊正論4月号=2000年4月告発

カルト宗教団体と日本共産党は動作回路は似ている。

■正論2000年4月号(P212~)より抜粋コピー■

告発対談
タイトル:
私たちが体験した日本共産党の”収容所列島”

元日本共産党国会議員秘書=兵本達吉
元民青中野地区委員会副委員長=安東親範
司会=産経新聞政治部次長=関田伸雄

■東京勤労者医療会 代々木病院
住所=〒151-8556=東京都渋谷区千駄ヶ谷1-30-7
電話=03-3404-7661(代表):FAX=03-3404-7456
●病床数=150床
150床(回復期リハビリ病棟49床、人間ドック3床)、透析ベッド35床
●診療科目
精神科・
内科・循環器科・消化器科・呼吸器科・リハビリテーション科
・外科・神経科・整形外科・眼科・皮膚科・婦人科・麻酔科・泌尿器科


■代々木病院の党役割と存在意義■

日本共産党系の医療機関団体「全日本民主医療機関連合会(民医連)」の総本山とも言える
代々木病院が、世界の共産主義諸国において人権弾圧の中心的役割を果たした
●代々木病院=”強制収容所(ラーゲリ)”と化している。


党や最高指導者への批判者や異分子に
「精神病患者」のレッテルを貼って葬り去ろうとしている。

日本にもソルジェニーツインが描いた”収容所列島”が存在している。
●知られざる実態を元共産党員の二人が告発する。

 
↓事件発端↓
■年賀状が発端の精神鑑定■

司会-まず、お二人が強制的に代々木病院精神科で
精神鑑定を受けさせられた経緯をお伺いしたい。

兵本達吉=私の場合は1990(平成2)年の年賀状が発端でした。

1989年は東欧の社会主義の崩壊があり、暮れに自宅で年賀状を書いていたら、テレビのニュースにルーマニアのチャウシェスク大統領夫妻が逮捕されて銃殺された場面が映し出された

人々は「チャウシェスクはドラキュラだ」と厳しく非難していました。

それを見て私はカッときたわけです。
なぜかと言うと、

●宮本顕治の指導下にあった日本共産党はそれまでチャウシェスクを「東欧の自主独立の政策を進めている人物であり、国内的には社会主義国家の建設を順調にやっている」と称え、「ルーマニア人民の英雄である」と天まで持ち上げていた。

こういう例は他にもあって、
●宮本顕治委員長はソ連を訪問してブレジネフと共同声明を発表して世界平和を謳い上げた。

ところが声明発表のわずか3日後に
ソ連がアフガンに軍事侵入しました。

ことほどさように
宮本顕治はトンチンカンなことをやる。

私は前々から宮本顕治のやることに批判的だったので、チャウシェスク処刑の場面を見て、頭にカッときて、
「宮本顕治独裁三十年」と書いたんです。

司会-ほほう、それで。

兵本達吉=正月が終わって国会(参院議員会館)へ出勤したら、党本部の書記局から「ちょっと来い」と呼び出しがあり、行ったんです。

宮本顕治の右腕とも言われていた書記局員が、私の出した年賀状を手に「君、これ書いただろう」と言うわけです。

否定もできないので「そうです」と認めたんですけど、
●密告の、共産党では報告制度と言うんですが、素早さには本当に驚きました。

「どうしてこういうことを書くんだ」とギューギューやられた。事実上の査問です。
最初のうちは私も「宮本顕治が独裁しているのは事実だと思う」とがんばった。

書記局員は「日本共産党は民主的に運営されている。宮本顕治だって党大会で選出されてやっているんだ」と言う。

形式的にはそうだけれども、日本共産党の党大会というのはあらかじめ誰が中央の役員に選出されるとかは、宮本顕治が引き続き委員長をやるとか筋書きが決まっている。

ほかにも書記局長や国対委員長の決裁で決まった国会の代表質問の原稿が宮本顕治の鶴の一声で正反対の内容に書き換えさせられたこともたびたびあった。

それを指摘して「これを独裁と言わずして何が独裁か」と2、3時間頑張ったけれど、とても認められる雰囲気じゃない。

結局、「間違ったことを書いた」と認めて謝罪するか、開き直って議員秘書を辞めるかの二者択一を迫られたわけです。

でも、私はその時、逃げ口上なんだけど

「一連の東欧の社会主義国の崩壊を目撃して非常にショックを受けた。
(年賀状を書いた時は)精神が動揺して情緒的にも不安定だった」と言ってしまった。
向こうはそれにパッと飛びついてきて
●「君は情緒不安定なのか。正常だったらそんなことを書くはずがない。精神鑑定を受けろ」ということになってしまったんです。


安東親範=私は日本共産党の方針を百パーセント正しいと信じていましたし、
日本共産党を批判したこともなかった。

1986(昭和61)年に中央大学を中退して民青中野地区委員会に加盟し、
1986年に共産党に入党、熱心に活動したもんですから
1987年には民青中野地区の副委員長になり、
1988年には民青を卒業して共産党中野地区委員会の専従党員となり、
牛乳配達をしながら真面目に党の仕事や学習をしていました。

民青の時代には、機関誌の民青新聞の代金にしても各地区の委員会は滞納が多くて、
7月と12月のボーナスでカンパを集めて払うような実情で、
中野地区委員会でも四百部が降ろされてきて実際配られるのは百部くらいでした。

自分の場合は民青新聞をきちんと配達、集金して半年以上も連続して月内に上納金を完納し、東京都の常任委員会でもほめられたり発表されたりしていました。

また日本共産党の指定文献はすべて読み、
中央委員会の決定も決定の翌日には読了していました。

それが、民青の副委員長になってから仲間に「頭がおかしいんじゃないか」と言われるようになったのです。
そのうち、陰口だけじゃなく、面と向かって
「精神病院に連れて行くぞ」と言われるようになったので、

民青を卒業後の
1988(昭和63)年11月ごろ、日本共産党本部の訴願委員会に「自分は一生懸命活動しているのに何とかしてほしい」と手紙を書きました。


●訴願委員会というのはそういう訴えを受けてその解決を図るところです。

ところが、
訴願委員会から自分のところには一切の連絡もないまま、ある日、地区委員会の組織部長に

●「お前、日本共産党の中央に何か書いただろう。
代々木病院へ連れて行けという指示だ」と言われた。

機関紙部長も「もう代々木病院の予約取っちゃったから」と言う。
自分は断ったんですよ。
けれど相談する人もいないし、上級組織の東京都委員会だとかあちこちに手紙を書きました。
が、これも一切無視されました。
自分が機関紙部長に

「私は正常だから代々木病院には行かない。おかしいのはあなただ」と言うと、
「じゃ、俺も一緒に検査を受けてもいいから」と言って、
結局、だまされるようにして
1989(平成元)年1月の末に
●代々木病院精神科に連れていかれました。

兵本達吉=安東親範は物事を几帳面にまじめに考えながらやるタイプ。
日本共産党の常任活動家としては向かないタイプですよ(笑い)。
適当にやらないと、あの世界はやっていけないの。

機関紙の赤旗を拡張しなさいと言われても、そんなもの増えるわけないんだから、
増えなくても増えましたとか増やしたふりをするとか、口では「はい、はい」と言いながら実際はやらないとか、適当に手抜きをしないと回らない世界なんだ。

日本共産中央委員会に勤務する熱心な日本共産党員だから赤旗をばんばん増やせるかというと、そんなことはないわけで、みんな増やせなくて困っている。

けれど、日本共産党本部の人間が赤旗の拡張をやっていないということになると具合が悪いので、・・・・

みんなで「頭がおかしいんじゃないか」と言って、追い出すための口実に使ったんじゃないかな。で、代々木病院はどうでした?

■自宅療養なのに、人手不足で赤旗配達■

安東親範=病院では医師に「自分は無理やり連れてこられたんだ」と散々言いましたから、
そのときから嫌われました(笑い)。

脳のCTスキャンと脳波の検査をされました。


●結果は勿論正常でして、医師も「あなたは正常です」と言いましたが、
同時に「ただ病名をつけなければ法律上(今後)精神科に通院することはできないので、病名はつけます」と、納得してくれという感じで言われました。

病名は何とつけられたのか覚えてないんですが、ハイペリドールという薬を出されて、3ヵ月間の自宅療養の指示を出されました。

自宅療養だというのに赤旗の早朝配達の人が足りないからといって、配達はやらされました。
医師からは2週間に一度来るように言われたんですが、1ヵ月に一度行ったり2ヵ月に一度だったりしてしてました。

この間、医師も代わり、「シルピリド100」とか「アキネトン」とかいう薬をもらいました。

病院に行くと、事務室の電話が結構聞こえて日本共産党から電話がかかってきたり、
待合室というか廊下に日本共産党の人間がいて

●「安東親範は精神分裂病と認定して入院させろ」と言ったりしているのが聞こえました。

とにかく、最初に精神科に連れて行かれたことですごく気落ちしてしまって、
その後は日本共産党の専従はやめましたが、
親元の杉並に戻ってまた民青に再加盟して活動はしてました。

しかし、杉並でも、一緒に活動していた人に中野での体験を話したら

●「あなたは重度の精神病だから代々木病院に入院しなさい」と言われて、またもショックを受けました。

日本共産党は嘘をつかない政党だとか、民主主義の権化だとか、日本共産党は正しくて倫理的にも道徳的にも最も権威のある正当だと信じ切っていましたから。

それで日本共産党とも民青とも関係のない友達に代々木病院行きの話をしたら
「共産党なんか止めた方がいい」と言われました。

1991(平成3)年に離党しました。・・・・

兵本達吉=私も最初は忙しいとか今日は都合が悪いとか言って逃げ回っておったんだけど、国会の(日本共産党の)事務局長から自宅に早朝電話がかかってきて「今日は他の仕事をさておいてまず
●代々木病院に行って精神鑑定を受けろ」と厳命が来たんですよ。


それまでに秘書仲間に相談したら
「そういう屈辱的なことに耐えるよりは、さっさと退職するなり離党するなりしろ」と言う人と、
「受けておいて、後で『精神鑑定をやられた』と宣伝してやったらどうだ」と言う人と半々で、
私は後者の道を選び、代々木病院に行ったんです。

代々木病院精神科の廊下の待合室に座っていたら、顔見知りの医師が通りかかって「今日は何ですか?」と聞くから「先生に診てもらいに来ました」と話したら、ニヤッと笑って部屋の中に入った。

しばらくして彼がまた顔を出して「兵本達吉、何ですか?」とまた言うので
「代々木病院精神鑑定を受けてこいと言われたので来ました」と答えると、真顔になって「じゃ入って」ということで順番をとばして中へ入ったわけ。・・・・・

 
安東親範=世界中で共産党は純粋な共産主義者、ピュア・コミュニストの追い出しをやっています。
私も結局、離党したわけなんです。

その後、私が「日本共産党には”強制収容所”があって、日本共産党の言うことを行かない人間を代々木病院精神科に連れて行っている」という批判をしたり日本共産党の医療戦略に関する研究を始めたことと関係があると思うのですが、

現在に至るまで私の職場に押しかけたり、外出先まで私を追い回したりして邪魔、嫌がらせをする人間がいるんです。

私は昔、映画やドラマのエキストラをやっていましたが、職場にやってきて同僚に
「安東親範を雇うとこんな目にあうんだぞ」と脅しめいたことを言ったこともあります。

1999年12月には都議会を傍聴に行ったのですが、眼鏡をかけた小太りの女性がいて、おかしな話ですが、都議会事務所に私の名前を出して中傷されました。

年がら年中のこのような行動に、裏切られたという思いを通りこして共産主義を心から憎むようになりました。

兵本達吉=党と衝突を起こして離れた人間が反党活動をやっていないかを監視するということはやっていると思いますよ。日本共産幹部会調査室というところでね。

私の場合も代々木病院精神鑑定を受けた後、それで無罪放免になったわけではなく、
●自己批判書を書かされました。

「書かなかったら日本共産党にいられなくするぞ」みたいなことを言われてね。

職場の同僚が心配して「偉大な宮本顕治議長に対して本当にとんでもない誤りを犯しました」といったことを私に変わって書いてくれたんだけど、自分で添削して国会担当の事務局長のところに持っていったら、私が書き直したところを全部具合が悪いと指導され、勝手に書き直されましたよ。

代々木病院精神科の戦略意義:
■精神医療を懲罰に乱用■

司会-これまでのお話から察すると、お二人以外にも強制的に精神鑑定を受けさせられた似つ本共産党員はいるんでしょうねえ。

兵本達吉=私を診た医師が言っていました、兵本達吉、あんただけじゃないんだと、日本共産党の機構の上から下までどんどん送り込まれてくるよと。

日本共産党活動の矛盾が代々木病院精神科医に持ち込まれて本当に困るんだ
と嘆いていました。

日本共産党は年がら年中赤旗の拡張運動をやってますが、絶えず上からノルマのように何月何日まで何部増やせと指示を打ってくる。

ところが、年中だから下部の党員は動かない。

ある県の機関紙拡大を担当している機関紙部長が上と下の板挟みになってノイローゼ気味になったんでしょうねえ。

「こんな拡大の方針はおかしい」と発言した。

そしたら
●「お前、ちょっと代々木病院精神科へ行け」と言われて、来たケースがあったそうですわ。

「こんなもの精神病ですか?
誰でも(陰では)言ってることだわ」と医師は言ってましたよ。

こういうふうに日本共産党の方針に反対する人、異論を唱える人、異分子と目された人を「あいつは頭がおかしい」と扱って
●代々木病院の精神科へ送り込むというのは、
精神科、精神病院を日本共産党員のイデオロギーをコントロールする一つの手段として、あるいは懲罰機構として利用しているわけで、けしからん話だと思う。

それで全国から患者が来ると言うんだ。

中には日本共産党生活とか日本共産党活動の矛盾に悩んで本当に精神状態がおかしくなった人もいるんじゃないかとは思いますが、大半はカッコ付きの患者、政治的な患者だよ。

代々木病院精神科の治療というのは問診が中心なんです。
その内容で正常かおかしいかの判断をするわけですね。
だから医師は患者に日常生活とか職場の様子とか仕事ぶりとか質問しますよね。

ということは、日本共産党からすれば普通の病院に行かせると、日本共産党員というのは日常的にこういうことをやっているんだという情報が外部に出てしまうことになる。

だから、
日本共産党系の民主医療機関、民医連と言うんですけど、そこの精神科に連れて行くのは日本共産党活動の内容が外部に漏れるのを防ぐためなんです。
正常な人間に精神科に行けというのは屈辱を与えるというか、ものすごいプレッシャーを与えることになるんです。

私と似たような目にあった人の話を聞いたことがありますが、
代々木病院に向かうときに吐き気がする。
代々木病院に近づけば近づくほど頭がズキンズキンと痛くなる。

それで今日はもう
代々木病院に行くのをやめようとクルッと引き返すと、吐き気も頭痛もスッと治るという。
精神的に非常に苦痛を与えるんですよ。
もうひとつは代々木病院精神科に行けと言われたことが恥ずかしい。
自分は後ろめたいことはないんだけれども、しかし、本人にはいやな思い出だし、社会的に明るみに出したくないという心境になる。

さらに私のように大学生のころから日本共産党員で何十年も日本共産党活動をやった人間にとっては周りの人間はみんな日本共産党員だし、色々な人間関係が築かれている。
そういう人間がそこからパッと飛び出したり、発言したりすることは大変なことなんだ。
しかも日本共産党と世間に知られている人間が再就職するたって大変なんですよ。

だから、泣き寝入りするしかない。

●この”代々木病院収容所”の問題が余り世間に知られていない理由はいま言ったことが複雑に絡んでいるからだと思いますよ。

それでも日本の場合は日本共産党の外に自由な社会があるわけで、精神鑑定を強要されたら警察に駆け込むこともできる。

しかし、共産主義国家のように国全体がこういう体制、システムで覆われて逃げる場所がないとなると、これは本当に恐ろしいことですよ。

その辺のことは、安東親範、詳しいんじゃないですか?


■証人喚問で実態を解明すべき■

安東親範=私は日本共産党をやめた時点から、日本共産党には”強制収容所”があって、日本共産党の言うことをきかない人間を代々木病院の精神科に連れて行っている、それは共産主義に共通しているんじゃないかということを研究し、公然と主張もしています。

ソ連、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、東ドイツ、アンゴラ、ユーゴスラビア、キューバ、どこの共産主義国でも精神医療が乱用されていることが学者の研究やアムネスティの発表で明らかになっていますね。

中国や北朝鮮では精神病院に連れていく前に抹殺されることが多いようですが、やはり中国の反体制の批判者が精神病院に連れて行かれるから助けてくれという手紙を出したということがアムネスティの記録に残っています。

●日本共産党が反体制派や意見を異にする者を精神病と認定する理由は、

まずそういうレッテル貼りをすることによって、
彼らの主張が一般国民から相手にされなくすること。

私の場合でも、私が何か言っても日本共産党は、
「あれは代々木病院で精神病と診断された人間の言うことだ。聞かなくていい」と言えるわけです。

精神病院に閉じ込めることで彼らを沈黙させることができるのも理由の一つです。
彼らを逮捕すると、法廷で何をしゃべるか分からない危険があります。

ソ連の場合ですが、病院に入れる方が裁判にかけるより費用がかからないという学者の研究が出ています。

日本共産党は選挙ポスターで「人権を守る共産党」なんて謳っていますが、『収容所列島』でソ連の強制収容所の実態を描き出し、ノーベル文学賞を受賞したソルジェニーツィンにどういう態度をとったか。

「ソルジェニーツィンはおかしい」
「ソルジェニーツィンの社会主義論は社会主義を歪めている」と批判し、
彼を弾圧したソ連共産党は内政干渉になるという理由で全く批判していない。

そういう日本共産党がどうして人権を語れるのかと思いますね。

●日本共産党系の民医連傘下には今、
千以上の病院・診療所があり、独特の綱領を持っています。

●同じく新日本医師会は独特の宣言を持っている。

それらを読むと、「アメリカ帝国主義に反対する」だとか「日本独占資本主義に反対する闘争の中で生まれた伝統を受け継いでいる」だとか言っています。・・・・

兵本達吉=結局ね、日本共産党というのは査問をやったり、統制委員会にかけたり、自己批判書を書かせたりすることでイデオロギーをコントロールしていかないことには全体を維持できない性格を持っていると思うんですよ。

この間、現在は米国席の呉弘達という人権活動家が来日しまして、私も30分ほど話しましたが、中国でも党の言うことを聞かない人間は精神病院に放り込んでしまうとはっきり言っていました。

天安門事件に参加した北京大学の学生のなんかでも精神病院に入れられていると。

だから僕は共産主義というものの有機的な一部分だと思う。

日本共産党の場合は微弱な政党だけれども、これが大きな政党に成長していけば、こういう懲罰システムも大きく成長していく。これは決して軽く考えていいことじゃない。

重大な問題として捉えてほしい。

先ほどの安東親範の話を継いで言うと、日本の精神医学界は、民医連系の精神科で本来の精神医療からは邪道な治療行為が行われていないか、調査してほしいと思いますね。

極端なケースについては人権擁護局なんかも立ち入り調査すべきだと思います。

もう一つ、いままで申し上げたようなケースについて、精神医療の問題として捉えるのであれば、国会でいえば厚生委員会、人権問題として捉えるのであれば法務委員会あたりで、例えば代々木病院の医師たちを証人喚問して調べるべきだと思います。

安東親範=同感です。

怖いのは、ソ連共産党の医師を引き合いに出して言えば、彼らは反体制の人間を心底から病人だと思いこんで疑わないらしいですね。
彼らの理論では他の人間と違う人間は病気だということになる。

兵本達吉=実態を解明すべきですよ。

こういうことを平然とやっている政党が大手を振って闊歩しておるということは由々しいことで、国会証人喚問。

日本共産党は何かあるとすぐ「国会に呼べ」「証人喚問しろ」と要求する党だから(笑い)、いっぺん、医師を国会に呼んでいただいて、みんなから質問してもらったらいいんじゃないかと私、思いますね。

ーーーー-----ーーーーーーーーーーーー

月刊誌「正論」4月号が、上記の告発対談を掲載したところ、
早速「しんぶん赤旗」3日付で、
「雑誌『正論』4月号の『告発対談』について」と題して批判を行っています。

「しんぶん赤旗」での主張は以下のとおり事実を歪曲した反論でした。

①「しんぶん赤旗」の文中では、

「兵本達吉は、1990年、『東欧情勢にショックを受け、夜も眠れず、心理的パニック状態になった』とのべ、みずから希望して医師の診察を受けたことがあります」

と兵本達吉が自主的に精神医にかかったと述べています。

②「しんぶん赤旗」の文中では

「だいたい『日本共産党の“収容所列島”』などありようはずもありません。

現に兵本達吉も対談者も、“強制収容”どころか、好きなところへ出ていってしゃべりまくっているではありませんか」と批判しています。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■↑

■■■■■■■■■■■■■■■■■■↓

『週刊文春・2006年11月9日号』
週刊文春の「引退後も特権享受不破哲三(本名=上田建二郎)は『赤い貴族』」

2003年(平成15年) 衆議院議員を引退する。
2006年(平成18年)日本共産党議長を退任する。
現在(2013/H25)=日本共産党中央委員会付属社会科学研究所所長。

▼引用開始↓

小誌は、専属の料理人がいるいう神奈川・津久井の山中深くにある不破(上田建二郎)
の私邸を訪ねてみた。(中略)
不破(上田建二郎)が七加子夫人名義でこの土地を購入したのは昭和60年(1985)。
広さは3265平方メートル(約988坪)。

昭和62年には所有権がすべて不破哲三(本名=上田建二郎)に移転。
広大な土地の上に、四棟の建物が建築され、
その一つは書庫兼不破の趣味である郷土玩具の陳列室として使われている。

問題はそのうちの二棟。
木造二階建ての居宅および車庫の名義は、共産党の所有となっている。

私有の土地の上に、党が建物を建てるという、極めて公私の別がない形になっているのだ。
この建物に「不破(上田建二郎)の秘書、ボディーガード兼運転手、料理人が常駐していた」
(党関係者)という。(中略)

不破(上田建二郎)が暮らすのは津久井の山荘だけではない。
山荘が都内から遠いため、東京渋谷にある通称「千駄ヶ谷寮」で暮らすこともしばしばだった。
ここは共産党所有の最高幹部専用の施設で、
不破(上田建二郎)らが宿泊するためのベッドルームもあるという。

▲引用終了↑

私邸なのに日本共産党名義というのがイカシています。
共産主義的とも言えますが「不破(上田建二郎)が固定資産税払ってんの?」という疑問も出てきます。
その辺はどうなんでしょうか。

次に、
記事は不破(上田建二郎)の収入について

▼引用開始↓

不破(上田建二郎)の国会議員時代の歳費は、
引退するまでの数年間を見ると、

約2070万円(平成12年、13年)、
約1938万円(14年)。

共産党は、
国の政党助成金を受けていないが、
その活動経費の一部を、
議員や議員秘書の歳費などを、カンパさせることで賄っている。
(中略)

不破(上田建二郎)は、
平成15年、党に約650万円を寄付しているから、
同程度の金額を歳費から差し引いたものが、給与所得だったと考えられる。

計算=2000万円ー650万円=1350万円≒不破哲三(上田建二郎)の給与

実は、党内で問題視されているのは、
歳費とは別の「雑所得」である。
不破(上田建二郎)の議員時代を見ると、

不破(上田建二郎)の「雑所得」は

約1018万円(H12年)、
約1067万円(H13年)、
約659万円(H14年)

とあるが、
その内訳は圧倒的に印税と原稿料収入が多いという。
(中略)

不破(上田建二郎)は国会議員を辞したため、
平成16年の党への寄付は38万9000円に激減。
平成17年10万8000円(党への寄付)。

ところが、
平成16年には10冊の単行本を出版、
そのうち7冊が新日本出版社から出ている。

定価の合計は約1万円(単純計算で1冊あたり1000円)。
不破(上田建二郎)の単行本は最低でも3000部は印刷するというから、
7冊で21000部、
印税が6%としても1260万円の収入を手にしていたと推測できる。

これに加え、
国会議員互助年金として、
34年間衆議院議員を務めてきた不破(上田建二郎)は、
年間600万円ほどを受け取っているはずだ。

共産党はこの年金制度を「非常に特権的」だと批判しているが、
不破(上田建二郎)が年金を辞退した様子はない。

さらに、
年間700~800万円という常任幹部会委員(共産党)としての給与などが加わるから、
優に、
年収2000万円を超える。

給与の遅配、欠配が続く地区専従職員とは雲泥の生活ぶり。
まさに「赤い貴族」である。

▲引用終了↑

うひょ~。セレブ生活一直線。
不破(上田建二郎)の党への寄付は激減しているのに、
不破(上田建二郎)の収入はそんなに減っていないことを暴露されてしまいました。
不破(上田建二郎)の平成17年の寄付金額は月あたり9000円、携帯電話の料金なみです。

計算=108000/12=9000円/月

そしてシメは「あーせー江青」です。
もしかしたらこの部分が一番面白いのかもしれません。

以下省略。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

大須田勉

当時日本共産党都議=福井典子の万引き事件を代々木病院精神科で隔離して正当化・強制収容所

$
0
0


日本共産党・代々木病院精神科部長=中沢正夫と言うセレブ大幹部

「福祉倶楽部」主催の福井典子は、日本共産党の万引き都議事件=1991事件」



■東京勤労者医療会 代々木病院
住所=〒151-8556=東京都渋谷区千駄ヶ谷1-30-7
電話=03-3404-7661(代表):FAX=03-3404-7456
●病床数=150床
150床(回復期リハビリ病棟49床、人間ドック3床)、透析ベッド35床
●診療科目
精神科・
内科・循環器科・消化器科・呼吸器科・リハビリテーション科
・外科・神経科・整形外科・眼科・皮膚科・婦人科・麻酔科・泌尿器科



■なぜ、万引き程度でこれほど、20年も経っているのに、
2010年の今も、ネット話題の題材になるのか?
それは、
日本共産党=代々木病院=思想の押し潰し強制収容所、に
のり、暗黒の闇病院に逃げ切りようとした福井典子の行動にある。
代々木病院に行かなければ、これほどの話題にならなかった。




↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

★1991年平成3年6月10日11時すぎに、
日本共産党の福井典子都議(当時)
が新宿西口の百貨店で、2万3千円相当の万引きをしました。

大手各新聞社とも、
「福井典子もつい魔がさしてやったと認めている」と報道し、


渋谷区選出の日本共産党元都議会議員=福井典子は
新宿の小田急デパートで ネックレスを万引き
警察では、「魔が差してしまった」と供述

しかし
日本共産党は、「てんかんの発作」によるもの として、
犯罪性を否定。日本てんかん協会の会長のコメントを紹介しながら
福井典子の「万引き」を正当化した。

その福井典子は、都議を引退、日本共産党都委員会の勤務員となったが
●「福祉倶倶楽部」を主催。自分の犯歴を隠しながら、全国各地を講演している。

福井典子は1993年4月渋谷区初台に高齢者、障害者の福祉の向上目指して
「福祉倶楽部」を発足させ、地域の拠点として活動し、介護保険制度が成立してからは制度の問題点や改善の方向などを各地で講演やシンポジュームを主催するなど運動の先頭になって奮闘されています。


当時の新聞も「赤旗」以外つまり一般の商業新聞は
当時の現職都議会議員の福井典子が小田急デパートで万引きして、
福井典子本人もデパートの警備員および警察署に罪を自供した。
犯意を認め、反省しているために即日釈放された。

ただ、その釈放のために、
日本共産党茶川克己都議(当時)が新宿警察に根回ししたという話もあり。
茶川克己都議は、都議の肩書きを利用し、
駐車違反のモミ消しに関与したことで、
日本共産党中央委員会から査問を受けている。


「デパート側も理解を示し、告訴していない」
したがって、いったんは取り押さえ、警察に通報され、「逮捕(ここは記憶が不十分)」も、
その後、「万引き」としては状況が違いすぎる(隠そうともしないでレジを通過)こと、
諸事情(家庭の問題で精神的に追い詰められていたこと、
いわゆる「癲癇」の症状がみられたこと)が明らかになったことで、
デパート側も告発しないこととなった。


てんかん(癲癇、Epilepsy)


日本共産党も当初厳しい対応を想定していたが、事態の推移の中で、適切な対応をとった。
赤旗は当時、もし事実なら福井典子に然るべき措置をとるという厳しさを打ち出していた。




福井典子は辞職願いを出したのです。が、
恐ろしいのは、1991年6月14日の赤旗の記事のほうです。
ここに引用してみましょう。


↓赤旗記事↓
●『常識では到底考えられない事態であり、私たちも大変びっくりしました。
心身の健康状態とも関係があるのではないかと憂慮して、福井典子本人
の同意も得て、福井典子前都議に医師の診断を受けてもらいました。

その 結果、
脳波に顕著な異常が見られることがわかりました。
脳波の異常 について、代々木病院(民医連系)の精神科医に他の病院の専門家
(民医連系の)もくわわって合診を行っていただき、

”挿間性意識変 容”で当面入院加療を要すると診断されました。

・・・医師の意見では、体調をくずしたなかで、この症状が起こ り、
意識がもうろう状態に陥り、今回の異常な行為(万引き)となったもの
とみられるとのことでした。』




●週刊新潮は1991年6月27日号で
「さっそく、事件を”病気”のせいにして始 末をつけようというわけである。
診断結果まで発表された福井典子、
たち まち、共産党系の代々木病院に”隔離”されてしまった。」と報じま した。



●筑波大学の小田晋教授(精神病理学)は、
”挿間性意識変容”という病名は ないとした上で、
”挿間性朦朧状態”というのはあるが、

この場合でも、症状は前々から出ていなければおかしいので、
いきなり万引きをしてその 病気がわかるということは考えにくい、
と述べております。


さらに、ゼンボウ誌は、
「代々木病院は6階建ての本館と東館と呼ばれる4階建ての新館からなっている。
福井典子はここの6階の党幹部専用の” 隠し病棟”にいる。
普通なら日本共産党の都議会議員程度では入院できない場所 である。
そのため福井典子は、同じ病棟に入院している他の党幹部たちと接 触できない
ように特別の個室に軟禁状態にされ、入院させられているの である。
・・・福井典子のために代々木病院の精神科医に属する医師たちによって
”医師団”が編成されている。



●主治医は代々木病院の精神・神経科部長の”中沢正夫”で、
そのほかに同科員の小牟田、安東という2人の医師が加わっている。
さらに代々木病院の分院ともいうべき埼玉県三郷市の”みさと協立病院”
の精神科医・雪田慎二も顔を出している。このような大袈裟な”医師団”を
そろえたのは、福井典子が本当に精神に問題があっての行動だとマスコミに
宣伝するために意図的に集めたのではないか、との声もある」と伝えています。





1987年に『選択』に掲載された
「日本共産党・代々木病院--公安ものぞけぬ文字どおりの聖域」では、
「(宮本顕治による)小畑達夫リンチ殺人事件を出すまでもなく、
日本共産党に自己批判とリンチはつきものだが、あの病院(代々木病院)
は一貫してその後始末をしてきた。

日本共産党が代々木病院を持っていれば、事実が外部に漏れることはない。
警察の介入を防げるわけだ。
・・・やろうと思えばニセの死亡届だって書けるし、
入院させて”消したいCの場合”のようにうまい治療で殺すことだってできる」
という記事が載っています。

代々木病院の医師は、全員が日本共産党員で、履歴を厳しくチェックされ、
相互監視体制を身に付けさせられ、万一秘密をもらしたら家族ともども
社会的死が待っていることを教え込まれます。怖い話しではありませんか。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



■あるブログ記事のコピー■

福井典子高齢者集会で講演 << 作成日時=2009年3月17日 >>


2009年2月15日に開かれた「江東区高齢者集会」の分科会に
福祉倶楽部主宰の福井典子が助言者として江東区に来られました。
テーマは「人間らしく暮らしたい」。これには48名が参加。
福井典子の助言のもと大勢の人が発言、盛り上がりました。


以下、参加者の感想を紹介します。
草の根の活動の重要さを感じる分科会、助言でした。

・心配な事としては、将来のことが大きい。年金も払っているが、もらえる保証ははどこにもないし、どうなるか不透明だと思った。(20代女)

・今心配していることは、自分の将来。年金制度がまだ続いているのか、払う意味はあるのか、貯金のほうがいいのでは?ということ。また仕事も心配。自分は資格職なのでまだ就職先はのこっているが、まわりの同学年の人は転職もとても苦労しているし、安定した収入がないと、なかなか結婚にも踏み切れない。すると少子化にもつながってくる。少子化になり年金を払う人が少なくなり、高齢者が多くなれば、年金制度が崩壊しないわけがないと思う。(20代女)


・福井典子はとっても元気ですね。明日は必ずくるので、しっかり自分の分野を守り続けていきたいと思いました。(40代女)

・福井典子のお話をうかがいたいと思いながら、なかなか機会がありませんでしたが、とてもお元気で明るく、行動的で励まされました。私は、あと3年で定年になりますが、まだまだ住宅ローンが残っている上、年金、医療など老後の心配が切実です。公立の保育士ですが、高齢者に関わる問題だけでなく、保育の問題も取り上げてくださったことは嬉しく思いました。(50代女)

・順番に老いを迎えていくので、沢山の今回の方の発言を聞き、とても勉強になりました。(50代女)

・年金、介護問題話題が多く、本当にみんなの力を結集することが大事だと思いました。助言者・福井典子の力強い元気な話が印象的でした。(60代女)

・短い時間でしたが、どの話も身につまされました。まとめの先生の話は、NPOの運動を進める上で、とっても参考になりました。実践します。(60代女)

・福井典子の実践にもとづいた元気な話、すごいですね。具体的な要求を皆で力を合わせて行政へもっていくことの大切さ、よく分かりました。(60代女)

・高齢者社会が進んでいるのに、問題が山積み。例えば「後期高齢者医療制度」「介護保険制度」どの問題をとっても、お話を聞いているだけで、暗く落ち込みます。おかしいなと感じたら、行動すること、この言葉で一歩一歩進むことだと強く思いました。(60代女)

・福井典子の話はメリハリがはっきりしていて、とてもわかりやすく学びました。今、一番の心配は、健康と医療費です。このところ、医療費の出費が重なり、これがますます増えたらと思うと大変心配です。ヨーロッパや訪ねたことのあるキューバのような社会保障、医療費無料になったら、どんなに安心して老後がくらせるかと思います。(70代女)

・とても有意義な文化会であった。特に年金問題が参考になった。(70代男)

・さまざまな立場、環境の人たちがいるものだと感じた。(70代男)

・病院や老人ホームに、医師、看護師、介護職が沢山いて、報酬も充分にあるようにして欲しい。(70代女)

・ヘルパーの質を高めていくことは、公的な分野で育ててから地域に出してほしい。人間としての心配りを必要とすることを忘れてはいけない。(70代女)

・福井典子の話にはとても励まされました。もう年をとったら何もできないという気持ちを捨てて、健康に充分気をつけてがんばりたいと思いました。(80代女)



■・”福井典子とは都議会議員の時代”から講義をきいています。■

お話はたいへんよかったです。参加されたみなさんから色々なお話が出されて、よい分科会だったと思います。(80代女)


ーーーーーーーーーーーーーーー


福井典子の履歴書は、

1993 年に高齢者・障害者の相談・よりどころ「福祉倶楽部」を開設し、
主宰として活動を続けてこられました。

また、
福井典子の娘が重い障害をもち、
福井典子自身もてんかん患者であることから、
①日本障害者協議会(JD)理事や
②日本てんかん協会の理事として、
障害者自立支援法反対の運動の先頭に立ち、
さらに最近は、“おばあちゃんの原宿”東京・巣鴨のとげぬき地蔵でのユニークな街頭活動など、高齢者運動も精力的に展開。
③渋谷区社会保障推進協議会会長、
④東京社会保障推進協議会副会長としても、
社会保障運動に取り組んでおられます。

⑤月刊誌「福祉のひろば」全国編集委員も務め、
分野を超えて幅広く、草の根からの福祉活動・福祉運動を進める福井典子。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



月刊正論の「【対談】日本共産党の“収容所列島” 」を読みとると、
次のような内容になっている。対談は、

「元日本共産党国会議員秘書・兵本達吉、
元民青中野地区委員会副委員長・安東親範、
司会/産経新聞政治部次長・関田伸雄 」。


●日本共産党系の医療機関団体「全日本民主医療機関連合会(民医連)」の総本山とも言える東京の代々木病院が、日本共産党内反対派の精神鑑定所に使われていると云う。日本共産党や最高指導者への批判者や異分子が送り込まれ、「精神病患者」のレッテルを貼って葬り去る手段として利用されている形跡が認められると云う。その様は、「世界の共産主義諸国において人権弾圧の中心的役割を果たした
強制収容所(ラーゲリ)」、「ソルジェニーツインが描いた゛収容所列島″の日本版」と云う。


対談の二人は、強制的に代々木病院精神科で精神鑑定を受けさせられた経緯の持主で、
後に告発している結果的に告発仲間という関係にある。


兵本達吉の証言は以下の通り。
浜本達吉は、1990(平成2)年の年賀状に
「宮本顕治独裁三十年」と書いたことが問題にされた。

それは、前年末のルーマニアのチャウシェスク大統領夫妻逮捕銃殺事件が関係していた。
日本共産党はそれまでチャウシェスクを「東欧の自主独立の政策を進めている人物であり、国内的には社会主義国家の建設を順調にやっている」と称え、「ルーマニア人民の英雄である」と天まで持ち上げていた。あるいは、
宮本顕治委員長はソ連を訪問してブレジネフと共同声明を発表して世界平和を謳い上げた声明発表のわずか三日後にソ連はアフガンに軍事侵入したことも関係していた。
日本共産党中央は、これらに政治責任を露ほどもみせなかった。これが、
「宮本顕治独裁三十年」の背景であった。


兵本達吉は、年明けで国会(参院議員会館)へ出勤したら、
日本共産党本部の書記局から年賀状問題を詰問された。ここで、貴重な証言が為されている。
「書記局長や国対委員長の決裁で決まった国会の代表質問の原稿が宮本顕治の鶴の一声で正反対の内容に書き換えさせられたこともたびたびあった」。


兵本達吉は、一応形だけ始末書を書いたが、「精神鑑定を受けろ」ということになり、いろいろ理由をつけて逃げ回っていたところ、日本共産党の国会の事務局長から自宅に早朝電話がかかってきて「今日はほかの仕事をさておいてまず代々木病院に行って精神鑑定を受けろ」と厳命がきて、代々木病院精神科に診察に向かうことになった。

ところが、担当医が同情的で「頭脳明晰、意識明澄」という診断書を書いてくれた。精神鑑定を受けた後、自己批判書をかかされた。兵本達吉の受けた心の傷は大きかった。後に離党し、「日本共産党には゛強制収容所″があって、

日本共産党の言うことをきかない人間を代々木病院精神科に連れて行っている」と告発側に廻ることになった。しかし、「現在に至るまで私の職場に押しかけたり、外出先まで私を追い回したりして邪魔、いやがらせをする人間がいるんです」、
「日本共産党と衝突を起こして離れた人間が反党活動をやっていないかを監視するということはやっていると思いますよ。日本共産党幹部会調査室というところでね」と告発している。


浜本達吉はこうも述べている。
概要「私を診た医師の言によると、二人以外にも強制的に精神鑑定を受けさせられた日本共産党員はいる、日本共産党の機構の上から下までどんどん送り込まれてきている、日本共産党活動の矛盾が精神科医に持ち込まれて本当に困るんだと嘆いていた。日本共産党の方針に反対する人、異論を唱える人、異分子と目された人を代々木病院の精神科へ送り込んでいる。精神科、精神病院を日本共産党員のイデオロギーをコントロールする一つの手段として、あるいは懲罰機構として利用している」。



もう一人の告発人・安東親範は次のように述べている。
「私は日本共産党をやめた時点から、日本共産党には゛強制収容所″があって、日本共産党の言うことをきかない人間を代々木病院の精神科に連れて行っている、それは共産主義に共通しているんじゃないかということを研究し、公然と主張もしています。ソ連、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、東ドイツ、アンゴラ、ユーゴスラビア、キューバ、どこの共産主義国でも精神医療が乱用されていることが学者の研究やアムネスティの発表で明らかになっていますね。中国や北朝鮮では精神病院に連れて行く前に抹殺されることが多いようですが、やはり中国の反体制の批判者が精神病院に連れて行かれるから助けてくれという手紙を出したということがアムネスティの記録に残っています。

日本共産党は選挙のポスターで「人権を守る共産党」なんて謳っていますが、『収容所列島』でソ連の強制収容所の実態を描き出し、ノーベル文学賞を受賞したソルジェニーツィンにどういう態度をとったか。ソルジェニーツィンの社会主義論は社会主義を歪めていると批判し、彼を弾圧したソ連共産党は内政干渉になるという理由でまったく批判していない。そういう日本共産党がどうして人権を語れるのかと思いますね」。


この「【対談】日本共産党の“収容所列島” 」に注目するのは、
兵本達吉が、「国会担当(政策秘書)として「田中金脈事件」「ロッキード事件」「ゼネコン疑惑」など日本共産党の金権腐敗事件追及委員会や法務委員会を担当」していたからである。兵本達吉の「田中金脈事件」「ロッキード事件」「ゼネコン疑惑」追求の舞台裏を知りたい。

この観点から聞くと、「書記局長や国対委員長の決裁で決まった国会の代表質問の原稿が宮本顕治の鶴の一声で正反対の内容に書き換えさせられたこともたびたびあった」証言。



●「代々木病院精神科問題」は日本共産党内反中央派叩きの為に使われているのは無論として、長い宮本顕治―不破哲三系日本共産党指導の反作用で実際に相当数の心身症患者が輩出している。


ーーーーーーーーーーーーー


①宮本顕治=
生年月日=1908年10月17日
出生地=山口県光市
没年月日=2007年7月18日(満98歳没)
死没地=東京都渋谷区
出身校=東京帝国大学(現・東京大学)
称号=日本共産党50年党員
日本共産党名誉役員
親族=長男・宮本太郎
配偶者=初婚・宮本百合子(1951年死別)
再婚=宮本寿恵子




②“不破哲三”はペンネームで本名は
上田建二郎(うえだ けんじろう)
生年月日=1930年1月26日(80歳)~まだ死んでない。
出生地=東京都中野区
出身校=東京大学
現職=日本共産党社会科学研究所長
称号=日本共産党名誉役員
日本共産党50年党員
親族=父=上田庄三郎
兄=上田耕一郎



③野坂参三=
生年月日=1892年3月30日
出生地=山口県萩市
没年月日=1993年11月14日(満101歳没)
出身校=慶應義塾大学
所属政党=(英国共産党→日本共産党→中国共産党→日本共産党
配偶者=妻・野坂龍



④志位和夫委員長=
生年月日=1954年7月29日(56歳)~まだ死んでない。
出身地=千葉県四街道市
出身校=東京大学工学部物理工学科
学位・資格 工学士
前職 政党職員
所属委員会 国家基本政策委員会委員
世襲 無
選出選挙区 比例南関東ブロック
当選回数 6回
所属党派 日本共産党
党役職 中央委員会幹部会委員長
会館部屋番号 衆・第1議員会館735号室






日本共産党の赤い貴族は、
日本共産党年金と言う優雅な生活が保証されているので、
しぶとく長が~く生きる。

野坂参三=101歳死亡
宮本顕治=98歳死亡
不破哲三=上田建二郎=100歳はいけると思う
志位和夫=も引退後も100歳バンザイだろう

おいしい夕張メロンとか、一切れ牛肉=10万円とか、
北朝鮮の金一族=まん丸顔の様に、栄養豊かの、
日本共産党幹部の赤い貴族生活で、
生きるて、こんなに幸せ。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

大須田勉

絶滅危惧種=日本共産党;赤旗2014年4月≒推定77万部、2015年4月≒推定52万部 ⇒廃刊

$
0
0
16000文字数
沈み行く赤旗カンバン、、廃刊への止まらぬ道


絶滅危惧種=日本共産党;赤旗2014年4月≒推定77万部、2015年4月≒推定52万部
(2011年4現在=132万部)

しんぶん赤旗の部数の推移を見てみよう。

2006/1=164万部 (24回党大会時、2006年1月)
2010/1=145万部 (25回党大会時、2010年1月)
2011/4=132万部 (最新データ、2011年4月)

●2011年4月末の赤旗販売部数は、
①日刊紙24万部、(月購読料2900円)
②日曜版108万部の(月購読料800円)
計132万部と見られる。

①=2900円×24万部=6憶9600万円
②=800円×108万部=8億6400万円
総計=①+②=15憶6000万円/1ヶ月


おおむね年5万部ペースの減少が、2010年から年10万部減のペースになっている。

減数⊿=164-145=19万部/4年間=5万部/1年間
減数⊿=145-132=13万部/1.25年=10万部/1年間

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

第26回党大会時の2013年1月時代では、、、
第27回党大会時の2016年1月時代では

< 未来推定 >
赤旗2014年4月≒推定77万部 ⇒ 赤旗日刊紙=廃刊、日曜版のみ刊行
赤旗2015年4月≒推定52万部 ⇒ 赤旗日曜版=廃刊、赤旗不定期タブロイド版のみ

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

生物の絶滅危惧種の絶滅曲線式;

2006年1月=A=164万頭
2007年1月=B=A×(1-kp)
2008年1月=C=B×(1-2kp)
2009年1月=D=C×(1-3kp)
2010年1月=E=D×(1-4kp)=145万頭

2011年4月=F=E×(1-5kpα)=132万頭

これにより、、、
p=???を求める。
k=???=赤旗特性係数を推定する=その生物の社会環境での絶滅評価

計算労働過程ははぶく、、
p=0.012=1.2%
k=1.1=社会環境の不適応による、急下降評価(1<k)

赤旗生物種のk=一定にして=計算が面倒なので、、

r=kp=0,0132=1.32%=赤旗生物種の絶滅減数率


ーーーーーー

2006年1月=A=164万頭
2007年1月=B=A×(1-kp)=164×(1-0.0132)=161.84
2008年1月=C=B×(1-2kp)=161.84(1-0.0264)=157.57
2009年1月=D=C×(1-3kp)=157.57(1-0.0396)=151.33
2010年1月=E=D×(1-4kp)=145万頭⇒151.33(1-0.0528)=143.34万 ⇔ 実数値=145万頭


2011年1月=F=E×(1-5kp)=143.34(1-0.066)=133.88
2012年1月=G=F×(1-6kp)=133.88(1-0.0792)=123.28


●2011年4月計算する。(2011年4月実際値=132万部)

1年=12ヶ月、、、、、、1月~4月=3ヶ月、、、

p=年金利=年利息の様なもの
R=月金利=月利息の様なもの 6kp=0.0792

(1-R)^12=(1-R)の12乗=1-0.0792 を解く。と、、


R=0.007  ⇒ (1-R)^12=(1-0.007)^12=0.9192=1-0.0808

で、ほぼ一致、、、0,0792 と 0.0808 はほぼ一致。

2011年4月=f~g=133.88×(1-R)^3=133.88(1-0.007)^3=131.1万頭

実測数=132万部 と 計算値=131.1万部 ほぼ一致。

< 結 論 >

この2006年1月~2010年1月~2011年4月、、までの5年間3ヶ月で、、
一貫して、(1-kp×n)式 で計算した。n=1,2,3,4,5、

それで、かなりほぼ、実数値と計算値が一致しているので、

絶滅危惧種=日本共産党=赤旗生物種、の計算式は、
やや妥当とする。

では、未来予想推定計算する。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■

2010年1月=145万部
2011年4月=132万部

この期間=1年3ヶ月=15ヶ月

145×(1-R)^15=132   を解く。と、

R=0.0062=月利息の様なもの、と求まる。

1-p=(1-R)^12=(1-0.0062)^12=0.92808≒1-0.072


よって、
2011年4月より、
p=年利息=0.072=7.2%
k=1.1  とする。

赤旗日刊紙は2011年9月より500円値上げ決定(2900円⇒3400円)。
①値上げによる日刊紙解約読者
②値上げによる日刊紙(3400円) ⇒ 日曜版(800円)への転換する読者。

k=1.1  は妥当な倍率。

よって、、
kp=1.1×0.072=0.0792≒0.08
を未来推定:絶滅危惧種赤旗減数率=0.08
として、使う。

ーーーーーーーーーーーー

kp=0.08=絶滅危惧種年減数率=8%

2011年4月=132万部
2012年4月=132×(1-kp)=132×0.92=121.4
2013年4月=121.4×(1-2kp)=121.4×0.84=102
2014年4月=102×(1-3kp)=102×0.76=77.5
2015年4月=77.5×(1-4kp)=77.5×0.68=52.7万部

と未来推定した。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
■■■■■■■■■■■■■■■■■■


赤旗側も2011年7月5日付の紙面で、
「発行経費を差し引いた日刊紙の赤字は、
今年に入って月2億円になりました」と、
その寂しい内情を淡々と述べている。

2011年4月現在=132万部=24+108=132
日刊紙=24万部(購読料=2900円)
日曜版=108万部(購読料=800円)

日刊紙=2900円×24万部=6憶9600万円/1ヶ月
日曜版=800円×108万部=8憶6400万円/1ヶ月


日刊紙のコスト=7憶円(収入)+2億円(赤字)=9億円/1ヶ月
この赤字2億円は日曜版の利益より補填。

■日刊紙赤字=2億円/24万部=833円
単純には、赤字値上げ額=800円
よって、2900+800=3700円(月購読料)
であるべきだが、、、、


今回の価格改定は以下のようになる。
日刊紙 :2900円→3400円
1部売り:100円→120円
(いずれも消費税込み、2011年9月1日から)

<日刊紙だけで赤字は月2億円>

そこで、足りない赤字部分=300円(800-500=300)は??

ーーーーーーーーー

「2011年7月5日付の赤旗は、
今後の黒字化戦略についてこのように語る。
この料金改定によって26万部で採算がとれることになります。
現在の24万部から2万部以上前進させるならば、
日刊紙の発行を安定的な軌道にのせることができるようになります」


つまり、
日刊紙の読者を2万人獲得することがノルマ目標だというわけだ。


値上増加収入=24万部×500円=1憶2000万円
ノルマ2万部=3400円×2万部=6800万円
うまく行けば式=1憶2000万+6800万=1憶8800万円/1ヶ月

これで、
現在の日刊紙の月2憶円の赤字を消せるとの思惑???
2011年4月現在24万部(2900円) ⇒ ??万部(2011年9月値上げ3400円)

ーーーーーーーーーーーーーー

365/7=52.1回(1年間)
52,1/12=4.35回(1ヶ月)

日曜版=800円×12/52,1=184円(日曜版の1部の売価)
日刊紙=2900円×12/365=95円(日刊紙の1部の売価)
日刊紙=3400円×12/365=112円(日刊紙の1部の売価)2011/9より

日刊紙値上げ幅=112-95=17円

日刊紙赤字=2億円/1ヶ月より
2億円×12/24万部/365=27円=日刊紙1部あたりの赤字額


おそらく、
日曜版1部につき、利益=40円、だろう。

1ヶ月の日曜版の荒利益=40円×4,35×108万部=1憶9000万円


いままでの、
自転車操作で、日刊紙赤字2億円を何とか日曜版荒利で補填。


日刊紙値上げ後=3400円でも、まだ赤字??
それには、共産党は、2万部の日刊紙購読ノルマ獲得命令。

まず、ムリ難題、


■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ーーーーーーーーー

<JBプレス+α文章>

小林多喜二=共産党員

2008年の出来事の1つに蟹工船ブームがある。
プロレタリア文学に属する小説『蟹工船』の作者で、
官憲に虐殺された小林多喜二が共産党員であったことから、
蟹工船ブームと同時に日本共産党も注目された。


日本共産党によれば、
毎月1000人以上の入党者があり、そんな状態が20カ月続いたという。
このことは、当時マスコミで大々的に報道された。


2008年蟹ブーム現象!!
■推定予想増加数=1000人×20ヶ月=2万人党員増加数のはずが???
蟹新入党=2万人、、、のはずだが?

では、
現在の共産党員は何人いるのか。
党員数は2~3年に1回開かれる党大会で明らかにされる
(25回党大会は2009年総選挙のため2010年に延期された)。

24回党大会(2006年1月)=党員数=40万4299人
25回党大会(2010年1月)=党員数=40万6000人

正味増加数=25回ー24回=40万6000-40万4299=+1701人

4年間の増減は「+1701人」。
「毎月1000人以上20ヶ月の入党者」があった割には、ほとんど増えていない。

赤い貴族で、将来党年金富豪で安泰の
志位和夫委員長の発表によると、
①この間に3万4000人の新入党員を迎えている反面、
②1万6347人の物故者(死亡者)が出ているという。
物故者(死亡者)のほとんどは高齢党員と見られるが、
それを差し引いても1万7653人党員は増えていなければならないはずだ。
しかし、1万5952人の離党者(除名、除籍者を含む)を出しているため、
党員増が約1700人にとどまっているのだ。


A=新入党数=34000人
B=死亡者数+離党数=16347+15952=32299人

正味増加数=AーB=34000-32299=+1701人

A=34000=蟹新入党+非蟹新入党=2万人+1万4千人

「共産党ブーム」など、マスコミが騒いだだけで、実際はなかったのである。

■破綻寸前の「赤旗ビジネス」■

それどころか、すでに
共産党は壊滅的な危機に瀕している。
財政が破綻寸前まで追い詰められているのだ。

●第1の原因は党員の高齢化である。
日本共産党の年間党費は年収の1%。
もし年収500万の党員なら、年間5万円だ。

日本共産党の年間党費=年収×(1/100)=年収1%消費税みたいな~
所得の1%でなく、年収の1% ⇒ 外形標準課税と似ている
非課税世帯でも年収があれば、党費徴収する


しかし、
定年になり、収入が年金のみとなると、
党員の収入激減に比例して取れる党費も減る。


もともと共産党員は会社員として冷や飯を食わされてきた人が多いから、
厚生年金の支給額も低い。そのため年5万円の党費収入が1万円、
あるいはそれ以下に激減することになる。

その上、
高齢党員に代わる、収入が比較的多い大企業のサラリーマン層、
あるいは将来の財政を担う若い党員がほとんど確保できていない。

財政危機の
●第2の要因は、党の機関紙「しんぶん赤旗」の部数の減少である。
実はこれが最も大きな要因だと言ってよい。

もともと日本共産党は政党の中でも、
優秀な「ビジネスモデル」を持っていた政党として知られていた。

政党機関紙、しんぶん赤旗(日刊紙と日曜版がある)の販売で、
大きな収益を上げられたため、
法人からの政治献金がなくても十分な政党活動が可能だった。

現在も、
■政党助成金■を一切受け取っていない。

しかし、
このビジネスモデルが破綻寸前なのである。


しんぶん赤旗の部数の推移を見てみよう。

2006/1=164万部 (24回党大会時、2006年1月)
2010/1=145万部 (25回党大会時、2010年1月)
2011/4=132万部 (最新データ、2011年4月)

●2011年4月末の赤旗販売部数は、
①日刊紙24万部、
②日曜版108万部の
計132万部と見られる。

①=2900円×24万部=6憶9600万円
②=800円×108万部=8億6400万円
総計=①+②=15憶6000万円/1ヶ月


おおむね年5万部ペースの減少が、2010年から年10万部減のペースになっている。

減数⊿=164-145=19万部/4年間=5万部/1年間
減数⊿=145-132=13万部/1.25年=10万部/1年間

この指数関数的、放物線的激減から、、、


毎月の赤字に今や青息吐息
そうなった理由は、
党員と支持者の高齢化である。
月2900円の赤旗日刊紙を、会社員時代には買えても、
定年になり年金生活になると、それなりに大きな支出となる。

そうした人は日刊紙よりも安い月800円の「日曜版」に切り替えることが多いが、
日曜版はもともと共産党に興味を持ってくれる人たちの、
入門版的な位置づけで作られた新聞である。
党員や支持者になったら、
日曜版から日刊紙の赤旗にグレードアップしてもらわなければならないのだ。
ビジネスモデルが本末転倒しているのである

しかも、その日曜版ですら、
近年はなかなか購読してもらえない。
共産党中央委員会から赤旗の拡大を求められる下部機関は、
新規読者を獲得できずに苦しむ。
特に拡大を求められる大型選挙の前になると、

党員は窮余の策として以前購読していた読者を回る。
そして「選挙まででいいから」と説得し、
義理チョコで赤旗購読をお願いするのだ。
当然選挙が終わると、こうした「短期読者」は購読をやめる。


選挙ごとにこれを何度も繰り返せば、
いくら共産党に義理があると思っている人でも、いい加減いやになる。
そのため選挙前は購読停止者以上に短期読者を開拓し、部数は微増するが、
選挙が終わると短期読者がいっせいに購読を停止するため、
大減紙となる悪循環が続いている。


悪循環が続けば、当然財政は悪化する。

●2011年4月末の赤旗販売部数は、
①日刊紙24万部、
②日曜版108万部の
計132万部と見られる。

①=2900円×24万部=6憶9600万円
②=800円×108万部=8億6400万円
総計=①+②=15憶6000万円/1ヶ月

日曜版ではまだ利益を出しているが、日刊紙の方は慢性的に赤字である。

■2005年に出版された元日本共産党政策委員長・
筆坂秀世氏の著書『日本共産党』、によれば、
筆坂が離党する前の日刊紙の赤字は月1億円であったという。
それが今では毎月2億円を超える赤字を出しているのだ。

毎月の赤字の補填は、日曜版の利益を吹き飛ばしてもまだ足りない。
現在、共産党は所有する土地などの資産を切り売りしたり、
関連会社の貸付金を引き上げたりして政治資金報告書の数字を維持している。


日本共産党中央委員会は、
政治資金報告書に記載義務のある財政数字以外は、、、

■ひた隠しにしているため、
■現在どれだけの資産が残っているのかは不明である。


だが、余裕がなくなりつつあるのは確かだ。
すでに地方機関では、赤字に耐えかねて、
専従職員の「解雇」まで行われている。


共産党は選挙を乗り切れるのか
もちろん党内でも危機感は強い。
2013年の参議院選と都議会選を乗り切れるか。
年に2つの大型選挙をやれる財政的体力など、もはやない。
しかし、選挙は放棄できない。

崩壊を先送りにするには、
①赤字を垂れ流す日刊のしんぶん赤旗の発行停止と
②政党助成金の受け取りしかない。

しかし、
①歴史と伝統のある赤旗の発行停止はこれまで外部に隠してきた、
党の危機を世に知らしめることになる。
②政党助成金も、受け取る他党をさんざん批判してきたのだ。
今さら受け取れば、やはり財政危機を世間に公表することになる上に、
党員の誇りをも奪い取る。

想像してほしい。

これまで党員は、
■政党助成金を「『思想及び良心の自由』を踏みにじる憲法違反の制度」であり
「政党を堕落させる腐食源」とまで言ってきた。
そんな党が政党助成金をもらってしまえば、党員は支持者に合わせる顔がない。

そうなれば、
いくら党に忠実だった党員でも指導部の責任を追及するであろう。
日本共産党はこれまで党本部は常に正しいとして、
●いくら選挙で負け続けても指導部は責任を問われなかった。
それが初めて、
党指導部の責任を問われることになる可能性が極めて高い。

この恐怖感が、党の対応を遅らせている。
いや、対応がされないままにしていると言っても過言ではない。

今、我々国民は、
日本共産党史の最終章をリアルタイムで目撃しているのである。


■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■



日本共産党の機関紙である「しんぶん赤旗」。
最近でも九州電力による「やらせメール」事件を他紙に先駆けて報じるなど、
赤旗発のスクープも決して少なくない。

しかし、
共産党こそ、かつての「蟹工船ブーム」のおかげもあって、
党員を若干増やしつつも、赤旗の発行部数は右肩”下がり”。

赤旗側も2011年7月5日付の紙面で、
「発行経費を差し引いた日刊紙の赤字は、
今年に入って月2億円になりました」と、その寂しい内情を淡々と述べるほどだ。


2011年4月現在=132万部=24+108=132
日刊紙=24万部(購読料=2900円)
日曜版=108万部(購読料=800円)

日刊紙=2900円×24万部=6憶9600万円/1ヶ月
日曜版=800円×108万部=8憶6400万円/1ヶ月


日刊紙のコスト=7憶円(収入)+2億円(赤字)=9億円
この赤字2億円は日曜版の利益より補填。


2011年7月10日付の「赤旗」紙面からは、
その厳しい財政事情が浮かび上がってくる。


1面スペースの1/3を使って悲痛な値上げアピール

しんぶん赤旗読者への値上げアピールは紙面、
でもかなりのスペースを割いて展開されている。

1面のみならず、10面でも7月4日に開催された、
第3回中央委員会総会での日刊紙値上げ提案について、
「日刊紙の危機打開」と見出しをつけて大きく紹介。
赤旗は「たたかいに不可欠」、
たたかうための「武器」だと訴えている。

今回の価格改定は以下のようになる。
日刊紙 :2900円→3400円
1部売り:100円→120円
(いずれも消費税込み、2011年9月1日から)

日刊紙だけで赤字は2億円。

赤旗は7月5日付の紙面でも、
その苦しい経営難を包み隠さず詳細に読者に向けて発信しているが、
その内容はとてもヘビーだった。

それは同紙が、
「大企業などの広告による収入に依存している一般の新聞とは異なり」
と自称するほどにタブーを恐れないからのか、はたまた、
それだけ追い込まれている様子を表現しているだけなのか。
以下、その中身を見ていく。

赤旗は、
この10年余の間に36万人から、24万人余へと、
12万人弱もの日刊紙読者を減らしている。
これは日刊紙だけを見ると、単純計算で3億4000万円以上にも及ぶ収入減だ。

2001年4月=日刊紙=36万部
2011年4月=日刊紙=24万部
減収=⊿=12万部×2900円=3憶4800万円


同紙は
部数が減り、「売り上げ」が減るなかで、
発行経費を差し引いた日刊紙の赤字は、
今年(2011年)に入って月2億円になりました。
と伝える。


ただ、
しんぶん赤旗はこの日刊紙とは別に、
月800円の「日曜版」を発行している。
日刊紙の読者はすべてが赤旗の購読を止めたわけではなく、
この安い「日曜版」への乗り換えを行った読者が少なくないようだ。


共産党員や赤旗の読者は最近では高齢層や低所得者層に偏るとみられ、
所得の伸び悩みと高齢化の進展は、
月2900円の日刊紙購入の余力を奪っており、
日刊紙から日曜版への移行が進んでいる。


■日刊紙とは別の採算管理をしていた日曜版は、
これに伴って収益を上げているものの、
現在ではその収益も日刊紙の赤字の穴埋めに用いられている。

そして、
その赤字克服のために赤旗が打ち出した戦略が
今回の「月500円値上げ」であるわけだ。


7月5日付の赤旗は今後の黒字化戦略についてこのように語る。
この料金改定によって26万部で採算がとれることになります。
現在の24万から2万以上前進させるならば、
日刊紙の発行を安定的な軌道にのせることができるようになります。
つまり、日刊紙の読者を2万人獲得することが目標だというわけだ。

値上増加=24万部×500円=1憶2000万円
ノルマ2万部=3400円×2万部=6800万円
うまく行けば式=1憶2000万+6800万=1憶8800万円

これで、
現在の日刊紙の月2憶円の赤字を消せるとの思惑???
2011年4月現在24万部(2900円) ⇒ ??万部(2011年9月値上げ3400円)

そう簡単に、2万部は増える訳なし、

これは値上げに伴って予想される読者減、
そして新聞離れそのものと戦いながら進めるわけであるから、
その道のりがいかに険しいかを物語っている。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■

赤旗の赤字は共産党の政治力衰退に直結

■■■■■■■■■■■■■■■■■■


7月10日付の赤旗は10面の特集で、北海道委員長の
日刊紙の赤字が選挙中のビラの発行にまで負の影響を及ぼしている
という発言を紹介。
中央委員会総会でも、
赤旗の没落がすでに日本共産党の活動力低下に、
拍車をかけている現状が赤裸々に語られたようだ。

もちろん共産党の活動は日刊紙販売収入のみならず、
党員からの党費や募金収入によっても維持されている。
しかし、

党費収入はその納付率と実額で落ち、
募金収入は額は大きいものの恒常的でないなど、こちらも安定性に欠く。

ここ2年でも総選挙や都議会選挙など大きな支出を伴うイベントが続く。
景気も上向かない中で、同紙の訴えは「同志」にどう響くのだろうか。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■

専従給与を払わなくてもいい「地区役員」、
つまり他に仕事を持って所得を得ている者や、
年金生活者に地方機関を運営させようと日本共産党は画策


革命を夢見て、あるいは国民の苦難の軽減に貢献をしたい。
そんな考えで党に人生を懸けた、
地方の専従党員(専従給与を払わねばならない)たちを切り捨てていくことで、
日本共産党は延命を図ろうとしている。

■地方組織の現実の実態について、、、、、

日本共産党は
①中央委員会の下に
②都道府県委員会があり、その下にいくつかの
③「地区委員会」があり、その下に
④支部がある。

共産党は個人単位の後援会を持たないため、
政治団体としては地区委員会が最小単位となる。


■財政健全化を訴えるビラを配布:あるA地区委員会の行動;

日本でも有数の規模と強さを持つ日本共産党A地区委員会の出したビラがある。
このA地区委員会は、共産党が比較的強い都市部にあり、
しかも管轄地域に大規模団地を持つ。
大規模団地は、日本共産党にとって大票田だった地域だ。


集団就職などで地方から出てきた者たちが入居していた団地は、
地域のしがらみがなかったため、
自分たちの街を自分たちでつくっていく機運が高かった。
そうした入居者たちに共産党は受け入れられやすかった。
(宗教では創価学会が強かったため、よく対立した)。
現在ではそうした団地の空気は一変しているが、
それでも支持者は他地域よりも多い。

そんな大票田を持つA地区委員会が、
1年ほど前、
全党員に対し財政健全化を訴えるビラを配布した。

普通はここまで詳細な財務データを出した資料が、
一般党員に配られることはない。

しかし、
党勢減退とは別の「事情」で、さらに財務が悪化するため、
党員に危機感の共有をしてもらおうとしたのであろう。


■党費、赤旗以外に、募金の山で生命維持

A地区委員会の政治資金収支報告書を見ながら分析する。と
共産党の財務は以下のような状況にある。

(1)党費収入が落ちている。しかも党費の未払いが多い。
「党費納入額は実収入の1%」を守るように書いてあるのは、
規定の党費を払っていない者がいることを意味する。
ちなみに
共産党全体では党費納入率は60%ほどである。
3人に1人は党費を払ってない。

党費を払っていない党員には、生活苦などで払えない党員がいないこともない。
しかし

この実収入×1%=党費;
は、非課税世帯だとか関係なく、現金収入があれば1%です。
1年間で30万円の超貧乏年収なら ⇒ 3000円です。


■幽霊党員:■
多くは党籍がありながら活動に一切参加していない
「実態のない党員」=すなわち幽霊党員だ


幽霊党員の中には40年以上前から放置されてきた人もおり、
今はどこに住んでいるのかも分からない行方不明者も多い。
しかし、党員数が減ったことを党本部に知らせると、
地区委員会の成績に響くので、放置されてきたのが実態だ。

もっとも、
2010年9月末に行われた二中総(第2回中央委員会総会=党大会の間に年2~3回開催される意思決定機関=)で、

党年金で富豪の貴族となる、志位和夫委員長は、
「実態のない党員」の整理を提起し、現在、整理が進められている。
これも外部に公表するのが怖いのか、
どれだけ整理が進んだかは今のところ明らかにされていない。

これは、
●新興宗教の会員数の幽霊会員と同じ現象。

(2)党費は年収の1%であるがゆえ、
定年時の退職金の1%も党費として納入しなければならないが、
納入していない人が多いのだろう。

 
(3)夏期・年末一時金募金とは、
専従党員のボーナスの原資である。
ボーナスは党員の寄附によって集められるのだ。

しかし、
今回はA地区委員会の財政が悪いため、
ボーナスは出ていない可能性が高い。
給料が出ていない可能性もある。


●給料の遅配、欠配など専従党員にとって珍しくも何ともない。
そのため多くの専従党員は、
配偶者に安定した給与が出る公務員や
手に職を持つ看護師などを選ぶ。

■宮本百合子を伴侶にした宮本顕治以来の伝統だ。


(4)赤旗の部数も減少しているが、未収金も多い。
未収金には、集金に行けない、行っても「金がない。来月に払う」と言われるような場合と、
購読者が赤旗代を払わずに転勤などでどこに行ったか分からなくなっている場合がある。
前者はまだ取れる見込みがあるが、後者はない。


(5)そしてなんといっても、募金の数の多さ。
挙げられているだけでも4つある。
党組織の維持はもちろん、
選挙費用や供託金、
赤旗配達時に発生する事故などの救援など、
多くの党活動が募金なしには立ちゆかない。
もっともこれは日本共産党にとって誇りでもあるのだが、
安定収入ではない寄附に多くを依存するのは、財政的な弱点だ。


実際、
このA地区委員会の政治資金収支報告書を見ると、
党費の約3.5倍の金額を寄附で集めている。
今は東日本大震災のため、震災募金と、
被災地の党組織復興募金が加わるため、
募金額はさらに膨れ上がっているだろう


熱心な共産党支持者は、
こうした多くの募金活動に対してもできるだけ協力してきた。
中には存命中、あるいは死後、共産党に資産を寄附する人も多かった。
地方党組織の土地建物には、そうした寄附で得られたものも少なくない。


2008年に総務省が行った政治団体の土地所有調査で、
●土地を所有する政治団体324団体のうち243団体が日本共産党の地方組織であった。
それには、こうした経緯があるのだ。
現在の党本部敷地も建物も、全て支持者の寄附で得たものである。
とはいえ、支持者の財布は打ち出の小づちではない。限度がある。



< 消失する高単価の「職場支部」 >:あるA地区委員会


まずは「党費納入数」の16年間の変化である。
「居住支部」とは、地域各所に存在する支部に属する党員で構成される支部で、
「職場支部」とは、企業内にある支部のことをさす。

①職場支部は企業内にあるため、
党員は現役の社員であり、所得も高い。そのため党費も多く徴収できる。

②居住支部は勤めていた会社を定年になった人や
主婦などが所属することが多いため、徴収できる党費は当然少ない。
16年間で党費が徴収できる支部と取れない支部の比率がほぼ逆転している。
その結果、1人あたり党費が約3分の2になっている。


③党費の「納入口数」の減少も深刻だ。
日本共産党は、以前は簡単に党員になれなかった。
試用期間があり、3ヶ月、半年程度の試用期間の、
活動実績が芳しくなければ入党を断られたのだ。
しかし、
党員拡大に力を入れだしてから審査は事実上なくなり、
現在では事実上誰でも入党できる。
そのため、
党への忠誠心の欠けた党員も多くなってきている。


「退職金党費の納入者数」も気になる。
年間で定年になる党員が何人いるのか不明だが、
赤旗の販売部数の減少も当然大きく響いている


■二中総で示された「専従切り」構想
繰り返すが、
このA地区委員会は、315ある日本共産党の地区委員会の中でも、
財務的な体力がある部類に属する。
それでも、早ければ今年、資金ショートを起こしそうだ。

しかし他の地区委員会でよく見られる、支持者などからの借金はない(A地区委員会)。
資金ショートを起こしても、地区委員会の所有地を担保に入れたり、
支持者から借金をすれば5年から10年程度はしのげるかもしれない。

もちろん、
■5年後に党があることが前提で、なければ破たんする。■

だが、
余力のない地区委員会はどうすればいいのか。

2010年9月に行われた二中総(第2回中央委員会総会)の幹部会報告において、
赤い貴族;志位委員長は次のように述べている。

「地区委員会の常勤常任委員は、1997年と比較して、1376人から918人へと大きく減っています。常勤常任委員がいない地区が3地区から11地区に増え、常勤常任委員が3人未満の地区が46.3%にまで増えています。地区委員会の指導中核が弱まっていることは、『支部が主役』の活動を援助する上で困難をもたらしています。


同時に、非常勤を含めると、現在、1万人を超える地区役員が活動していることは重要です。
その年齢構成は、50代と60代前半で約6割を占め、
試されずみの経験豊かで活力ある同志が多数となっています。
65歳以上の年金生活に入った同志たちが地区役員として奮闘していることも、大きな力です。

この1万人の地区役員に依拠して、
『支部が主役』の活動の発展をどうつくりだしていくかは、新しい挑戦の課題です」
と述べた。

ーーーー

■誰がどう読んでも、
専従給与を払わなくてもいい「地区役員」、
つまり他に仕事を持って所得を得ている者や、
年金生活者に地方機関を運営させようとしている。
ようにしか読めない。


■革命を夢見て、あるいは国民の苦難の軽減に貢献をしたい。
そんな考えで党に人生を懸けた、
地方の専従党員たちを切り捨てていくことで、
日本共産党は延命を図ろうとしている

赤い貴族制度の運営には、
組織の保持には、個人人間=核燃料棒と見る
下層市民のことは、自然肥料堆肥の原資と見る

■■■■■■■■■■■■■■■■■■

▼共産市議が離党届「毎月の上納金で生活に支障」▼
2013/11/14読売新聞

日本共産党相模原市議団(4人)の大田浩(37)が、党への多額の寄付やカンパを事実上強制され、生活に支障をきたしているとして、離党、離団届を出したことが2013/11/13日、分かった。

取材に対し大田浩(37)は、
「年間約300万円も上納させられ、公認時にそんな話は聞いていない」と主張。
党神奈川北部地区委員会は、
「詳細を説明している。党公認で当選した以上、役目を果たすべきだ」としている。

大田浩(37)は2011年4月の市議選で初当選。2013/11/8日に離団届を提出し、11/10日に離党届を党に郵送した。離団届は現在、共産党市議団長預かりになっている。

大田浩(37)によると、納付金は、月約48万円(税引き後)の市議報酬のうち、党費と党への寄付金として毎月約16万円。8月と12月には「夏季・冬季カンパ」として各約17万円、年2回の期末手当(ボーナス)時にも各約40万円を納めており、年間総額は約306万円に上る。

①党費+党へ寄付≒16万円/月⇒合計192万円/年間
②夏季・冬季カンパ≒各17万円⇒合計34万円/年間
③年2回期末上納≒各40万円⇒合計80万円/年間
④国政選挙などの際にも臨時のカンパを求められる

総合計上納金①②③=192+34+80=306万円/年間

相模原市議会局によると、
議長、副議長を除く相模原市議の年間報酬は約1090万円(税引き前)。

大田浩(37)は、
国政選挙などの際にも臨時のカンパを求められるとし、
これらの納付が「事実上の強制」と訴えている。
離党、離団については、「昨年(2012)11月に結婚し、子供ができれば生活できなくなるので決断した」と話し、無所属の1人会派で活動していく考えを示した。

共産党の公認候補は、党員の中から選出され、選挙戦で全面的なバックアップを受ける。
共産党規約は、党の資金に関し、
「党費、党の事業収入および党への個人の寄付などによってまかなう」と記載しており、
「党費は実収入の1%とする」と定めている。

大田浩(37)の離党、離団届提出に対し、
共産党神奈川北部地区委員会の菅野道子副委員長は、
「寄付金などの詳細は擁立する際、本人に伝えている」と説明。
「個人ではなく、党として取り組んだ選挙で当選した以上、党の議員として役目を果たしてほしい。思いとどまるよう話し合いたい」としている。

(2013年11月14日読売新聞)

■■■■■■■■■■■■■■■■■■


< 追加文 >


①絶滅曲線式で、
減数率=(1-kp×n) で表現した。

しかし、より良いのは
減数率=(1-k×p^n)である。 p^n=pのn乗

pの範囲 ⇒ 0<p<1
nの範囲 ⇒ n=自然数 ;n=1,3,5、とか飛び数もある。
kの範囲 ⇒ k=補正係数 ;マクローリン係数の様なもの

ただ、
p^n では、計算労働が大変なので、
p×n として、簡単化した。

▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼

②検証計画;
赤旗2014年4月≒推定77万部、
赤旗2015年4月≒推定52万部 ⇒ 廃刊

に関して、
3年後(2014年)、
4年後(2015年)に、

予想値推定値が、当たっていたか?、
は検証する計画です。

▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲

大須田勉

東大の教養学部学生自治会が全学連を脱退・2012/6/14代議員大会で脱退議決した

$
0
0

東大の教養学部学生自治会が全学連を脱退する
2012/6/14代議員大会で脱退議決した
2012.6.20[産経抄]

東大の教養学部学生自治会が全学連を脱退する。
といっても50代より下の人にはチンプンカンなニュースだったかもしれない。
その意味合いを理解できる人は少ないだろう。
「そもそも全学連って何?」という素朴な疑問も聞こえてきそうだ。

▼全日本学生自治会総連合の略である。昭和23年に結成され、左翼政治運動の一翼を担ってきた。特にS35年(1960年)の「安保闘争」では、7千人が国会に突入するなど反対運動の先頭に立った。海外でも「ゼンガクレン」の名前で知られ、あの時代を彩る存在ではあった。

▼ただ安保闘争前から起きていた内部分裂は全共闘運動で決定的となる。
今では5つの党派がそれぞれ「全学連」を名乗り、細々と活動を続けてきた。
東大教養学部の自治会が決別するのは、日本共産党の影響力の強い、
いわゆる民青系全学連だという。

▼脱退の理由もその「共産党」だ。党支部が自治会の役員候補を勝手に決めるなどの「介入」に嫌気がさしてのことらしい。だがS35年(1960)の国会突入のさいも中心になった教養学部自治会は今や、民青系全学連における「主力部隊」だった。脱退は大打撃だという。

▼とはいえ、共産党の方の「落日」傾向も今に始まったことではない。
とりわけ国政の場では、衆参合わせて15人という勢力で民主、自民の二大政党の間で埋没してしまっている。テレビ討論での与えられたわずかな時間を除けば、
ほとんどその存在感を示す場もない。

▼政治離れや政党離れのこの時代に、一政党が若者たちを操ろうとすること自体しょせん無理な話である。学生運動の「脱共産党」も仕方ない。
いずれにせよ、昭和20年代からS30年代のセピア色のアルバムを見せられている思いがした

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

東大自治会が全学連脱退 「共産党、不当支配」
2012.6.17産経ニュース[共産党]

戦後の学生運動の象徴だった全学連(全日本学生自治会総連合)に所属する東京大学教養学部学生自治会が、全学連と都学連(東京都学生自治会連合)から脱退することを代議員大会で決定した。
●同自治会は理由について「日本共産党による全学連と都学連を通じた不当な支配から脱却するため」としている。
●同自治会は全学連の中核的存在。関係者は「全学連にとって存続に関わる問題で共産党勢力の凋落(ちょうらく)を裏付ける動き」と指摘している。

全学連は現在、5つの党派が独自に名乗っているが、
●同自治会が所属していたのは最大組織とされる共産党系の日本民主青年同盟系(民青系)全学連。
●同自治会執行部によると、共産党は長年、学生党員を正副委員長に就任させることで、党の指示通りに自治会が動くよう画策。直接または全学連、都学連を通じて署名活動を指示するなどしてきたという。

昨秋(2011/秋)、中国籍の委員長を中心に脱退へ向けた議論が高まり、執行部内の党員も党に反旗を翻して同調。
■2012/6/14日に開かれた代議員大会で脱退が決議された。

産経新聞の取材に対し、
共産党東京都委員会、全学連ともに「不当な介入は一切ない」としている。


■全学連■
各大学にある学生自治会の全国組織。
学費値上げ反対闘争を背景に、昭和23年(1948)に約150大学、20万人以上で結成されたが、
徐々に対立を深め、共産主義者同盟(ブント)などの各派に分裂。
●新左翼系は無党派学生らと全共闘を結成し安保闘争に参加するが、抗争などで弱体化した
●民青系全学連は現在、活動実態のある加盟数を37としているが、実際は10程度とされる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

共産党員、自治会人事を掌握 東大・中国人学生が反旗 
2012.6.17産経ニュース[共産党]

かつての東大学生運動の中心的存在だった教養学部学生自治会が全学連から脱退した。
運動が下火になった後も40年以上続いた「共産党支配」に終止符を打ったのは、
皮肉にも党に心酔して一時は党の“手先”となった中国人学生だった。

「彼ら(共産党幹部)は学生自治会を自分たちの従属物としか思っていない。それが許せなかった」
こう憤る教養学部3年で同自治会前委員長の何(か)※さん(20)は、全学連脱退を主導した仕掛け人だが、実は高校時代から共産党の機関紙を愛読していた共産党信奉者だった。

何さん(20)は山口県で育ったが、中国籍のため党員にはなれなかったものの、入学直後から党活動に加え、同自治会の活動にも積極的に参加し、平成22年12月に委員長に就任した。

しかし、翌年(2011)の12月には党と決別。
党の狡猾(こうかつ)な手口による学生自治会支配に嫌気がさしたからだった。

何さん(20)によると、手口の基本は、執行部内の党員に党の方針を指示し、ほかの執行部員の賛同が得られるよう主張させることだという。そのために行うのが、党員を正副委員長に就任させるという工作だ。

党の支部会議で次期正副委員長候補を勝手に決定。現職委員長に指示して、この候補に活動方針の提案など役割を多く与え、存在感を高めて自然と委員長に選ばれるように画策する。

何さん(20)の「転向」を契機に、ほかの執行部員らも相次いで賛同。党員2人までも反旗を翻した。教養学部2年で、現委員長の五十嵐真純(20)は「今は学生運動が盛んだった時代とは違い、共産党的な要求実現一辺倒では学生の支持は得られない」と話す。

全学連にとって同自治会の脱退は存続に関わる打撃だ。
同自治会の分担金は、全学連の収入のうち約4割を占めているほか、
役員も多く出しているためだ。

※=王へんに力


■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■

■現在の全学連■状況↓

現在は以下5団体が「全日本学生自治会総連合(全学連)」として並存し、
それぞれが全日本学生自治会総連合としての正当性を主張している。
5団体とも「全日本学生自治会総連合(全学連)」と名乗る。
民青系全学連をのぞいて、
「全学連(○○委員長)」と委員長名でほかの全学連と区別する。

①民青系
②中核派系
③革マル派系
④革労協現代社派系
⑤革労協赤砦社派系

ーーーーーーーー

①■民青系
日本民主青年同盟(民青)が主導する全学連である。本部は東京都武蔵野市にある。毎大会には著名人による基調講演が行われており過去には内閣府参与の湯浅誠(2008年大会)などが講師となっている。学生から集めたアンケートなどをもとに省庁等に対する要請行動を行っており、2006年には国立大学の学費値上げをストップさせるなどの成果を上げたと主張している。

●加盟学生自治会の数は公称170だが、
2012年現在で実際に全学連の活動に参加している学生自治会のある大学は8にとどまる。

活動が確認できないとして代議員選出権等、全学連での権利が停止されている学生自治会もある。

加盟自治会は、加盟分担金を全学連に払うことになっているが、
履行しない自治会が多い。
2006年には、加盟分担金合計の過半を立命館大学の加盟自治会による拠出がしめた。
現在(2012)は立命館大学の加盟学生自治会も加盟分担金を払っていない。
機関紙は「祖学(祖国と学問のために)」(月刊)。一度廃刊となったが、2012年現在はコピー機で印刷している。印刷部数はおよそ1000部、定期購読部数は150部以下となっている。

●地方組織として、
東京都学生自治会連合(都学連)、
京都府学生自治会連合、
愛知県学生自治会連合等をおく。

現在(2012)、
都学連には東京学芸大学・東京農工大学が、
京都府学連には立命館大学や京都市立看護短期大学など、
愛知県学連は日本福祉大学や名古屋大学などの自治会が加盟している。

2012年6月、東京大学教養学部自治会が代議員大会を開き、全学連からの脱退を決議した。
東大教養学部自治会は全学連の発足以来の加盟自治会であった。

かつては大阪府組織として、6大学8自治会が加盟する大阪府学生自治会連合(府学連)があったが、現在は活動を停止している。
2005年に旧大阪府立大学・大阪女子大学・大阪府立看護大学の府立系3大学が統廃合し、自治会組織が再編されるのを契機として、同年2月(2005/2)、第71期府学連大会にて大阪府立大学学生自治会連合が府学連から脱退した。それに対応し、府学連も同大会で役員不足による活動休止を決定し、新たに代替組織として大阪学生要求実現連絡会(大阪連絡会)を設置した。大阪府立大学学生自治会連合は2005年6月に「大阪府立大学中百舌鳥キャンパス学生自治会」に再編された後、全学連再加盟の検討を続けたが、2008年後期に加盟しないことを決定した。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

②■中核派系
中核派系とされる全学連である。
現在は主に、法政大学、東北大学、富山大学、岡山大学、広島大学で「学生自治会」を名乗って活動が行われている。なお大学から公認されている自治会は現存しない。現在、前述の大学に加え、筑波大学、弘前大学など8大学での活動が確認されている。

●2006年3月14日、法政大学「当局」の立て看板撤去に抗議していた中核派活動家など29人(内法大生など大学関係者は5人)が建造物侵入と威力業務妨害の容疑で逮捕された。逮捕時には約200人の公安警察が動員された。中核派はこの事件を「2006・3・14法政大学弾圧事件」と称し強く反発した。2006/6/25日には29人全員が釈放され、そのうち法大生であった5人には停学や退学処分が下された。その後、処分生5人や法政大学無関係者も含む逮捕者を中心に「3・14法大弾圧を許さない法大生の会」という団体をつくり、学内外で抗議活動を現在も行っている。大学側は警備員を常駐させるなどして対処している。06、07年中に停学学生に対して無期限停学や退学など追加処分が下され、(大学無関係者含めて)逮捕者は40名を超えている。

●2007年4月27日、退学処分に対する中核派などのデモ中、中核派全学連活動家の学生ら2名が大学職員への暴行容疑で逮捕された。

●2009年4月24日、東京地裁による「情宣活動禁止等仮処分命令」、大学側による処分発令などに対する中核派らによる抗議集会とデモにおいて、中核派全学連活動家の学生ら6人が公務執行妨害などの容疑で逮捕(集会中に5人、デモ後に警察署前で行われた抗議行動で1人)された。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

③■革マル派系
革マル派系とされる全学連である。
新左翼党派系の全学連の中ではもっとも大きな組織実態を有している。
加盟自治会は愛知大学(豊橋校舎)、國學院大學、北海道大学農学部など全国に点在する。

同全学連の活動家は、「全学連フラクション(ZF)」に組織され、さらに5年以上ZFで活動したものはマル学同革マル派への加盟が認められる。

1990年代から2000年代前半にかけて早稲田大学では、
革マル派と同派の影響力を排除しようとする当局との間で激しい対立が続いた。その中で、同全学連の加盟自治会であった商学部自治会が1995年7月に、社会科学部自治会は2005年3月に公認を取り消された。また、大阪経済大学の自治会は、2005年10月に自治会活動家が教職員に対して暴力事件を起こしたとして、2005年11月10日に非公認化された。加盟自治会の有無にかかわらず、サークルを通した活動も展開しており、北海道大学・北海道教育大学旭川校・帯広畜産大学・金沢大学・早稲田大学・國學院大學・津田塾大学・和光大学・横浜国立大学・名古屋大学・奈良女子大学・大阪経済大学・神戸大学・鹿児島大学・琉球大学・沖縄国際大学などで活動が確認されている。

ーーーーーーーーーーーーー

④■革労協現代社派系
革労協現代社派系とされる全学連である。

2011年現在は同派が拠点とする大学は1校も無いが、
明治大学では明治大学学生会中央執行委員会・学苑会中央執行委員会名で学外活動を中心に新歓闘争などを行っている。

ーーーーーーーーーーーーー

⑤■革労協赤砦社派系
革労協赤砦社派系とされる全学連である。
現在、同派が自治会を有する大学は無いものの、
千葉大学、宇都宮大学、東北大学、福井大学、徳島大学、九州大学のサークルに対する活動が確認されている。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

大須田勉

共産党90周年、陰りの道 党勢ジリ貧 [反原発]主導できず⇒廃刊党\日刊紙23万部割れ(2013/7/3現在)

$
0
0
11000文字数

共産党の衆院選では、
2012年=8議席
2014年=21議席(偶発的大躍進)
2017年=12議席(2017/10/22衆議院総選挙投票日、比例=11,小=1)
おそらく共産党の衆議院標準議席数はμ=10議席で永年定着。
ーーーーーーーーーーーー

共産党90周年、陰りの道 党勢ジリ貧 [反原発]主導できず
2012年7月15日産経新聞

【2013/7/3現在日刊紙23万部割れ記事は最下部↓】

日本共産党(志位和夫委員長)は2012/7/15日、結党90周年を迎えた。
非合法政党として発足したのは大正11年で、現在の主要政党では最も古いが、
党勢は低迷している。
民主、自民両党の二大政党に不満を持つ層の受け皿となる戦略は奏功せず、既成政党の一つとして埋没気味なのは否めない。
党員の高齢化や財政難など構造的な課題も山積だ。(佐々木美恵)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

◆「苦労した10年」◆

「自民か民主かのキャンペーンが行われ、
共産党は蚊帳の外に置かれ、苦労した10年だった」

志位和夫は2012/7/13日の記者会見で、最近の10年間についてこう振り返った。
平成16年(2004)には党綱領を43年ぶりに全面改定し、

■イデオロギー色の強い「前衛党」や「労働者階級の権力」などの文言は削除。
■自衛隊や象徴天皇制の容認方針を打ち出して「ソフト路線」を強めたが、

国会の議席増に結びつかなかった。
古参党員は反発し、有権者からは見せかけにすぎないと受け止められたためだ。

H16年(2004)綱領の《 案 》を公表した直後のH15年(2003)衆院選では、
改選前20議席を9議席に大幅に減らし、それ以降議席数は横ばい。
中選挙区制時代とはいえ、昭和54年(1979)の衆院選で41議席を得たのとは隔世の感がある。

志位和夫は民主、自民、公明3党が消費税増税法案の可決に踏み切ったことや民主党の分裂、福島第1原発事故以来の反原発論の高まりから、「反転攻勢につながる潮目の変化を感じる」と期待を寄せている。

共産党は、非自民・非共産の各党が結集した「新進党」(平成6年12月~9年12月)が解党した過程で批判票の受け皿になったと分析している。

H8年(1996)の衆院選の比例代表で727万票、
H10年(1998)の参院選の比例代表で820万票を得た。
H21年(2009)の衆院選の比例代表は494万票、
H22年(2010)の参院選の比例代表の得票は356万票で、

これ以上の減少は何としても避けたいところだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

◆機関紙収入も苦戦◆

組織の弱体化は深刻だ。

■党員数は、
H2年(1990)には50万人を誇ったが、
今年(2012,H24)5月1日現在で31万8千人。

■党収入の柱の機関紙の読者は、
10年前(2002,H14)の約190万人からH22年(2010)には約145万人となり、
苦戦している。

■党員の高齢化も加わり、組織の弱体化が党勢拡大の足を引っ張る悪循環も起きている。
実際、H20年(2008)にワーキングプアの社会問題化に伴う『 蟹工船 』ブームでも、
党勢挽回のチャンスを逃している。

共産党は「反消費税」「反原発」を昔から強く主張してきたが、
○消費税増税反対では、新党「国民の生活が第一」の小沢一郎代表らの動きが目立ち、
○反原発でも共産党は運動の主導権を握れていない。

今年(2012,H24)5月には「全国活動者会議」を25年ぶりに招集し、
党員や機関紙読者獲得の大号令をかけた。
2012/6月に2千人、今月(2012/7)に入ってから千人の入党者を得たが、
それでも昨年(2011,H23)決めた新規入党目標の5万人に対し、
約1万2千人の獲得にとどまっている。
ーーーーーーーーーーーーー

《 政党 》から、《 政治団体 》に名称が変わるのはいつだろう~?

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

2012/12/16衆議院総選挙 &
2013/7/21参議院通常選挙 の
共産党躍進の理由はどこにあるのか?!!
潜水艦の瞬間風速的急浮上は?
▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼

本質は革命政党「政権とれない」安心感も、しかし民意はうつろいやすい!!
2013/8/5ZAKZAK

■選挙事情に詳しい永田町関係者はこう分析する↓。

①「昨年(2012/12/16)の衆院選で日本維新の会を支持した人が共産党に流れたケースが多かった。“右”から“左”への急旋回だが、そうした人はインテリ層によくみられる。まさか共産党が政権をとれるわけがないという『安心感』も、そんな投票行動につながった」

②「自民への対抗軸」として期待された野党が自滅した際、
共産党が瞬間風速的に浮上することは、これまでの選挙の歴史が証明している。

■平成10年(1998)/7/12の参院選通常選挙■
橋本龍太郎首相(当時)の恒久減税発言に批判が強まる中、
離合集散を繰り返す野党への不信感から共産党に無党派層が一点集中した。

だが、
今回(2013/7/21)の参院選での成果は必ずしも、
“漁夫の利”だけではなかった。

東京、大阪、京都の各選挙区で当選した3人のうち2人は30代。
戦力の「若返り」だ。党員の高齢化に伴って先細る党勢を巻き返そうと若年層の党員獲得に躍起になってきたが、「やっと若手の人材が育ち、戦略の効果が表れてきた」(党幹部)という。

昨年(2012/12/16)の衆院選選挙区で擁立した299人の候補者のうち30代は51人で17%。
今回(2013/7/21)の参院選ではさらに新陳代謝が進み、選挙区の候補者46人のうち30代は12人。4人に1人は30代という計算だ。
ちなみに自民党の選挙区候補49人のうち30代は6人で12%余りだ。

今回の参院選で導入されたネット選挙解禁も追い風にした。
「今までの支持者層とはまた別の新しい層にも訴えが浸透していった実感がある」。
東京選挙区で当選した吉良佳子参院議員(30共産)はそう語る。

共産党はホームページ(HP)に特設サイト「カクサン(拡散)部」を開設し、8人のゆるキャラマスコットを使って政策を訴えた。各候補者はフェイスブックやブログをフル活用した。
党幹部は「『原発』『雇用』『憲法』を3点セットに、逃げずに真正面から有権者とやりとりした。
訴えは広く拡散され、若い層へのネット効果は大きかった」と強調する。
 
志位和夫も5月からツイッターを始め、お気に入りのクラシック音楽や猫のこともつぶやくなど
「ソフト路線」の最前線に立った。

極めつきは志位和夫の選挙ポスターだ。
撮影したのは「女優写真」の第一人者とされる立木義浩。
微妙に「左傾」した頭の角度に、普段は見せないようなほほえみ、そして演歌歌手ばりの握りこぶし…。「大ヒット演歌『さざんかの宿』の大川栄策にそっくりだ」という声も聞かれた。

他の野党からは
「若返りなどイメージの打ち出し方を変えて成功した。
統一したイメージを作れないわが党と違う」(民主党幹部)と恨み節も聞こえる。

「軒先で雨宿りしている人に、どう家の中に入ってもらうかだ」(不破)。
党の理論的支柱とされる不破哲三元議長は周囲にこう話しているという。
⇒党への無党派層の支持は緊急避難的要素が強く、本物ではない。

志位和夫は2013/8/2日、
「日本共産党への新たな期待や関心が広がっている」と新人議員を鼓舞した。
⇒しかし、民意はうつろいやすい。

共産党は、
日の丸・君が代を国旗・国歌とする事に反対している。
天皇を迎える国会開会式をボイコットしている。
政党助成金を受け取ってない(startから∑総合計で何億円拒否したのかガマン強い)
などなど・・・・
▲■■■■■■■■■■■▼

▼補 足▼説明/1998年現象▼

第18回参議院通常選挙1998(H10)/7/12
選挙"結果"=改選+非改選=合計

自民党=103=与党(橋本龍太郎)

▼野党
民主党=47
共産党=23=15+8
公明党=22
自由党=12
社民党=13
新党さきがけ=13
自由連合=1
無所属=28

総合計=252議席

■日本共産党の"選挙前"=改選(6)+非改選(8)=14議席■
第18回通常選挙により

6議席(選挙前)から ⇒ 15議席(選挙後)に増加・・・<+9議席増>

この当時・・・
自由党(小沢)
新党さきがけ
公明党は与党になってない、野党になっていた。
ーーーーーーー

▼第18回参議院通常選挙▼
解説:
●自民党の敗因は、
前年(1997)の国民負担増(消費税率引上げ等)、それに伴う景気の後退、失業率の上昇などとみられる。また、投票直前の橋本総理・閣僚の減税に関する発言が二転三転したことも有権者の不信を招いた。

●自民党は負けたとはいえ野党側の選挙での共闘体制が整っていなかった。
新進党の解党から間もない時期であることで、民主党が野党第一党にこそなったものの、民主、社民の両方から出馬での共倒れの1人区がある一方で、自民党以外では共産党や無所属しか立候補していない選挙区も有るなど、調整がほとんど成功しなかった。
結果として選挙区では無所属候補者が多数当選し、一方で、

●共産党が結党以来最多の当選者を出し、自民批判票の受け皿となった。

●自民党の敗因の一つは当選者3人区以上の区での複数擁立による共倒れであり、自民候補は条件に当てはまる4都県(東京・埼玉・神奈川・愛知)で共倒れして議席を失い、
共産候補がそれらの選挙区でいずれも当選した。

■選挙後、自民党は
現有議席の大幅減を受け、橋本内閣は総辞職した。
後継の小渕恵三内閣は、過半数割れした参議院対策に苦労し、連立を模索するようになる。
議席を獲得できなかった新党さきがけは「さきがけ」に改称、事実上の解散となった。
同党(さきがけ)はのちに「みどりの会議」に改称するが、当選者を出せないまま解散した
■■■■■■■■■■■■■■■■■■

■■■■■■■■■■■■■■■■■■

真夏の“怪”?
2012/12/16&2013/7/21共産党「躍進」なのに、なぜか『赤旗』は大幅減
2013年8月11日/産経新聞(高木桂一)

■日刊紙23万部割れの“怪奇現象”?■
2013/7月の参院選で12年ぶりに選挙区で議席を獲得するなど「躍進」を果たした日本共産党だが、党勢拡大の基盤たる機関紙「しんぶん赤旗」の購読部数は2013/7月、大幅に減少していた。
⇒2013/7/3現在日刊紙23万部割れ/
⇒2013/7/3;日曜版の部数は何万部か?は不明(赤旗は発表してない!!)

参院選の結果について、
共産党指導部は「従来の支持層以外からも幅広く支持を得た」と胸を張っている。
ならば⇒機関紙の部数は増えてよさそうなのだが、
選挙真っ只中での「赤旗」の後退は「やはり…」ということらしい。

共産党関係者によると、
2013/7月の「赤旗」購読部数は前月比(2013/6月比)、
日刊紙(月額3400円)が5411部、
日曜版(同800円)が2万2204部それぞれ減らし、
トータルで2万8000部近く落ち込んだ。

【2013/7/3=日刊紙は23万部を割る】↓
とりわけ党の財政基盤となる、
■「赤旗」日刊紙の購読者数はこの10年余の間に36万人から24万人余に後退していた。
がついに「23万部割れ」となった。
2013/7/3日付「赤旗」日刊紙で岩井鐵也党建設委員会責任者は、
「日刊紙は23万を割るという事態にあり、この課題が緊急課題だ」
と危機感を示し、2013/8月の巻き返しを党内に呼びかけた。

共産党はこれまでも、
国政選挙前の数カ月に「赤旗」購読者数拡大への「大号令」を全党にかけ、
部数を瞬間風速的に増やしながら、
選挙中にそれを減らすのが“通常”だった。
共産党幹部はその理由をこう打ち明ける。

「『選挙まで赤旗をとってほしい』と知人に、
◆期限付きで購読を無理強い頼み込み◆、
部数を増やしてきたケースが多いからだ。
また選挙期間中は党員も選挙運動に専念せざるを得ず、
赤旗の部数拡大まで手が回らない事情もある」

共産党関係者によれば、

「赤旗」日刊紙は
2013/4月に119部、
2013/5月に778部、
2013/6月に595部増え、

日曜版も
2013/4月に3039部、
2013/5月に4277部、
2013/6月に4644部拡大した。

しかし2013/7月にその“貯金”を使い果たすどころか、
参院選に向けての「赤旗」読者拡大運動をスタートさせる前よりも減らしてしまっている。
のが実情のようだ。

ちなみに
日曜版の増減幅が大きいのは、
月額購読料が日刊紙より格段に安いため、
購読者数を一時的ながら増やしやすいからである。

志位和夫委員長は2013/2月の第6回中央委員会総会で、
「赤旗」購読者数について「2013/7月の参院選前に(平成22年の)前回参院選時の回復をめざす」とぶちあげたが、結果的に2013/7月の参院選前には前回参院選時の数に大きく届かず、
さらに2013/7月に後退させてしまったのだ。

共産党はH23年(2011)7月に開催した第3回中央委員会総会(3中総)で、
2011年9月からの「赤旗」値上げを決め、党勢拡大のための「大運動」の号令をかけた。

講読部数24万部の「赤旗」日刊紙の赤字が毎月約2億円にのぼるため、
購読料を月2900円から3400円に値上げした上、
部数を2万部増やす目標を掲げていた。
それが日刊紙を26万部に増やすどころか(希望目標日刊紙26万部へのノルマ)
2013/7月「23万部割れ」である。

とはいえ、
今(2012/12/16&2013/7/21)の共産党は、
「赤旗」を年々減らし続けてきたこの10年余とは“勢い”が違う。
H12年の志位委員長-市田忠義書記局長体制発足後、
国政選挙で「8連敗」を喫していたこの党が、15年ぶりに躍進を果たしたのだから、
普通に考えれば2013/7月の「赤旗」購読者数は増えていてもおかしくないだろう。

参院選の結果について、
「自民党の“暴走”を食い止めようと訴える日本共産党の主張に無党派層、とくに若い層の共感を得た」と党幹部は強調しているが、その無党派層を「赤旗」購読までつなげるのはやはり一筋縄でいかないということだ。

なおも党の理論的支柱とされる不破哲三元議長は、
「軒下に雨宿りしている人々に、どうやって家の中に入ってもらうかだ」、
と周囲に語っているというが・・・・・・、
参院選で共産党の躍進をもたらした無党派層の支持も緊急避難的要素が強く、“本物”ではなかったことが、2013/7月の「赤旗」後退でも浮き彫りになった。
「とりあえず共産党に票を入れとくか…」程度の有権者も多かったということだ。

日刊紙の2013/7月「23万部割れ」、
に危機感を抱く共産党は去る2013/7/6日、
党本部で全国都道府県組織部長・機関紙部長合同会議を開き、党勢拡大の「歴史的チャンス」を逃さず、「赤旗」購読者と党員の拡大に向け2013/「8月攻勢」をかける方針を打ち出した。
同会議で市田書記局長は、
「『鉄は熱いうちに打て』ということわざがある。
この2013/8月からスタートダッシュすることが大事だ」と訴えたという。

共産党広報部によると、
今回(2013/7/21)の参院選後、党本部に直接入党を申し出てきた人は計200人を超えた
(2013/8/9日現在)。かつてない勢いとかで、
今後「赤旗」購読者と党員を飛躍的に拡大させていく素地は十分できつつあるという。
まずは猛暑のなかで展開される「8月攻勢」の帰趨が注目される。
(政治部編集委員)

↑↑■2013/7/3現在;日刊紙23万部割れの“怪奇現象”?■↑↑
2012/12/16総選挙・2013/7/21参議院通常選挙で躍進といえど
赤旗が減少・・・・ここに、共産党の官僚的組織の怖さの認知が作動している。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■

▼共産市議が離党届「毎月の上納金で生活に支障」▼
2013/11/14読売新聞

日本共産党相模原市議団(4人)の大田浩(37)が、党への多額の寄付やカンパを事実上強制され、生活に支障をきたしているとして、離党、離団届を出したことが2013/11/13日、分かった。

取材に対し大田浩(37)は、
「年間約300万円も上納させられ、公認時にそんな話は聞いていない」と主張。
党神奈川北部地区委員会は、
「詳細を説明している。党公認で当選した以上、役目を果たすべきだ」としている。

大田浩(37)は2011年4月の市議選で初当選。2013/11/8日に離団届を提出し、11/10日に離党届を党に郵送した。離団届は現在、共産党市議団長預かりになっている。

大田浩(37)によると、納付金は、月約48万円(税引き後)の市議報酬のうち、党費と党への寄付金として毎月約16万円。8月と12月には「夏季・冬季カンパ」として各約17万円、年2回の期末手当(ボーナス)時にも各約40万円を納めており、年間総額は約306万円に上る。

①党費+党へ寄付≒16万円/月⇒合計192万円/年間
②夏季・冬季カンパ≒各17万円⇒合計34万円/年間
③年2回期末上納≒各40万円⇒合計80万円/年間
④国政選挙などの際にも臨時のカンパを求められる

総合計上納金①②③=192+34+80=306万円/年間

相模原市議会局によると、
議長、副議長を除く相模原市議の年間報酬は約1090万円(税引き前)。

大田浩(37)は、
国政選挙などの際にも臨時のカンパを求められるとし、
これらの納付が「事実上の強制」と訴えている。
離党、離団については、「昨年(2012)11月に結婚し、子供ができれば生活できなくなるので決断した」と話し、無所属の1人会派で活動していく考えを示した。

共産党の公認候補は、党員の中から選出され、選挙戦で全面的なバックアップを受ける。
共産党規約は、党の資金に関し、
「党費、党の事業収入および党への個人の寄付などによってまかなう」と記載しており、
「党費は実収入の1%とする」と定めている。

大田浩(37)の離党、離団届提出に対し、
共産党神奈川北部地区委員会の菅野道子副委員長は、
「寄付金などの詳細は擁立する際、本人に伝えている」と説明。
「個人ではなく、党として取り組んだ選挙で当選した以上、党の議員として役目を果たしてほしい。思いとどまるよう話し合いたい」としている。

(2013年11月14日読売新聞)
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

立憲民主党に食われて大惨敗、共産党の見えない明日
2017/10/26文春オンライン「週刊文春」編集

2017/10/22日に終わった衆院選。
事前の予想に反し、大失速したのは、希望の党だけではなかった。
「ああ、ほっとしたなあ~」(志位)
日付の変わる10分前に沖縄1区で小選挙区唯一の当選者となる赤嶺政賢氏に当選確実の報道が出ると、共産党の志位和夫委員長は小池晃書記局長と拍手で喜んだあと、思わず小声で呟いた。12=11(比例区)+1(小選挙区)

共産党は、前回獲得した21議席を大幅に下回る12議席にとどまった。
特に比例代表での「過去最多となる850万票」の目標は幻に終わり、北海道、中国、四国ブロックでは議席を獲得できなかった。

政治部記者が語る。
「共産党は『確かな野党』として衆院選、参院選、東京都議選と議席を伸ばしていた。自民党も嫌だが、民進党も嫌という層の取り込みに成功していたのです」
この勢いで、衆院選でも民進党、自由党、社民党との選挙協力で議席増を狙っていた。
「多くの選挙区で候補を取り下げ、野党統一候補に一本化する代わりに、15の重点選挙区を指定。そこは共産党候補を推してもらい、沖縄の1議席にとどまっていた小選挙区議席を増やす作戦でした。与党における公明党と同じポジションです」(同前)

民進党とは、硬軟自在の戦略で交渉を優位に進めていた。
野党共闘に賛成すれば、その議員の選挙区の共産党候補を早々に降ろす作戦だ。
「政策理念の違いから共闘に反対だった議員でも、選挙に弱い政治家は共産党にすり寄っていきました。民進党から希望の党に移った議員には、共産党は“刺客”を立てていますが、松野頼久氏や小川淳也氏の選挙区に擁立を見送ったのは、民進時代に共産党と握っていたからです」(民進党関係者)

2017/9月に入って、希望の党が結党されても、共産党幹部はこう余裕を見せていた。
「都議選と同じ構図だ。これで行き場のないリベラル層はうちに来るしかない」
だが、都議選と大きく違ったのは、立憲民主党の誕生だった。リベラル層を立憲民主党に食われ、惨敗に終わった志位氏は「共闘勢力が議席を伸ばすのは嬉しいことだ」と強がったが……。
「そもそも候補の取り下げは、高齢化で縮小する党の支持基盤を踏まえての苦肉の策でもあった」(前出・幹部)

公明党と同じく、「下駄の雪」となるのか、もう一度独自路線に舵を切るのか。
展望は見えない。
ーーーーーーーーーーーーーーー
「下駄の雪」とは、
「力のある者についていく者のこと」。 語源になったのは「踏まれても蹴られてもついていきます下駄の雪」といった内容の都都逸(どどいつ)との説もあるが、永田町界隈の政治用語でもある。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

衆議院で、
日本共産党が0議席にはならないが、10議席程度なのはなぜだろうか?
2012年=21議席の偶発的躍進をしてから、何をしたのか?不明
例えば、
議員報酬半減法案(議員立法)でも(廃案になってもよいから)提出したか?⇒していない
秘書給与での何らかの形で法案提出したか?⇒していない
21議席分の報酬から、天引きして党財政に吸い取った。だけ

この党は、昔々、
北朝鮮のチョンリマ大躍進と謳い、大いに赤旗で称賛した。
中国の文化大革命も赤旗で社会主義国は素晴らしいと称賛し毛沢東万歳!!
それが、今や、そんな事、言いましたけっ!と知らん顔、
そう言う事実には、触れない!語らない!知らない!。

野坂参三・宮本賢治の獄門島の様な憲兵・東ドイツの様なスパイ拷問事件など
日本共産党のけっして語らず,開かずの間の親先祖(野坂/宮本)の血しぶきの流れをくむ。
放送禁止用語の様にごく普通の組織政党として丸い党らしくふるまっていいる。
が、いつでもジキルハイドの如く豹変する怖さの臭いが染み出ている。

晋三が”こんな人”とたった4文字を発しただけで、発言禁止用語として、
徹底的に金づちで叩かれて、丸く球体にされた。
むろん、改憲晋三とはいえ、国民の金槌(カナヅチ)による球体成形で、
人間首相と言うよりも、レプリカ首相となる。

自民党とは言え、共和党と民主党の合体党であり、
あえて、共産党と言う不気味な党は必要としていない。
中国・ロシアなどその共産党実践国のファシスト政権的印象から、
日本共産党のあえて1桁議席で十分と考えている日本国民は多いなのである。

共産党委員長が引退後は、共産党独自の年金制度で実に優雅な老後が永年保障されている。
こんな商売、やめられない,とまらない。

大須田勉

ちょびヒゲ安部首相ヒトラー写真投稿事件[共産党・吉良よし子参議院議員]⇒赤い欲望の霊柩車を操る女・佳子

$
0
0
10005文字数

共産党・吉良よし子参議院議員[ちょびヒゲ安部首相ヒトラー写真投稿事件]

《あ、これも行きたい…。若者広場in赤旗まつり。1日目14時30分から、ドラム・レクチャー。ドラムが待ってます!》@kirayoshiko・2014年11月1日09:35投稿

赤い欲望の霊柩車2014年3月26日発売週刊新潮
ーーーーーー
ちょびヒゲ!!
共産党・吉良よし子代議士が「安部首相ドラム」ツイート、批判が殺到し大炎上中
2014年11月5日AOLニュース[文・今岡憲広]

共産党の代議士・吉良よし子(32)が、自身のtwitterアカウントで、
安倍首相の顔をコラージュしたドラムセットの画像を投稿。
・「あまりにひどすぎる」
・「これがヘイトだ」
と批判が集まっている。

原文=《ドラムレクチャーなう。@若者ひろば まにあったーp(^_^)q pic.twitter.com/0SSDqAOw7p
- 吉良よし子 (@kirayoshiko) 2014, 11月 1》

というのも、たとえそれが首相の物でなかったとしても、
ドラムという性質上、「叩く場所」に人の顔をデザインするのは、趣味の良いものとは言えない行為。
しかもその顔が首相の物で、かつ、
ヒトラーを彷彿とさせるような「チョビヒゲ」までコラージュした物となればなおさらだ。

そのため、この画像を見た一般ユーザーからは、
・「こんなヘイトが許されるのですか?」
・「韓国でよく見る光景を思い出しますね」
・「首相を叩いて喜んでるんですか」
・「とても子供には見せられない」
といった強烈なバッシングが相次いだ。

先般のSMバー騒動にしかり、とかく、政治家についてはその「品性」が問題視される事も少なくない。
場合によってはそれが自らの政治生命を危うくする事もある。
そうした意味で今回のツイート、しばらくの間は有権者からの厳しい声が続きそうな気配だ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
吉良よし子参議院議員がTwitterにアップした写真・日本共産党の活動家が安倍ヒトラードラムを抱えている写真
2014/11月1~3日にかけて日本共産党が行った『赤旗まつり』にて、ドラムレクチャーと称してヒトラー髭をつけた安倍総理の写真を張り付けたドラムを叩いて楽しんでいたようです。

この写真をアップしたのは以前・・・
「『オスプレイがペースメーカーに不調をきたす』@kirayoshikoツイート」とデマを飛ばしていた共産党の吉良よし子参議院議員です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

共産・吉良佳子⇒週刊新潮に路チュー撮られた 共産党は「常軌逸した取材」と激怒
2014.3.26ZAKZAK

女性議員の「路チュー」が激写され、永田町で話題となっている。
昨年2013/7月の参院選で初当選し「共産党のキラークイーン」と注目された吉良佳子参院議員(31)=東京選挙区=だ。
公衆の面前で男性とキスしている写真が、2014/3/26日発売の「週刊新潮」に何枚も掲載されていた。

同誌によると、
吉良の相手は同い年の男性(松嶋祐一郎31)で、ともに独身。
目黒区議選や東京都議選に落選した共産党の同志だという。

地下鉄池袋駅のホーム、目黒区内の路上や公園で、キスを交わす2人は実にお似合いだ。
これに対し、共産党は怒りを爆発させた。

とは言っても、
怒りの矛先は週刊新潮。党広報部は夕刊フジの取材に「常軌を逸した取材だ。
国会議員といってもプライバシーがある」と激しく糾弾。
今回の件で、吉良に処分が下るかどうかを聞くと、「バカバカしくてコメントに値しない」と一蹴した。

【元党政策委員長で、政治評論家の筆坂秀世】も、
「党の規約は好きな男とイチャつくのを禁止していない。お好きにどうぞ」と笑い飛ばす。
ただ、真面目な共産党らしく、かつて共産党の雑誌『女性のひろば』で、男女の不倫を描いた渡辺淳一の『失楽園』に肯定的な批評が掲載されたとき、
「宮本顕治元議長が激怒して、編集長が更迭された」(筆坂)。

ともかく、ブラック企業対策で活躍する吉良にとって、元気の源は恋の力のようだ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

大胆「路チュー」撮られ、「今、幸せです!」 共産党アイドル・吉良佳子議員の熱烈恋愛
2014/3/26J-cast

「お堅い」「暗い」―そんなイメージを持たれがちな日本共産党で、今「アイドル」「キラークイーン」ともてはやされているのが、吉良佳子参議院議員(31)だ。フレッシュさに加え、「脱原発」「ブラック企業根絶」など主張を貫くブレない姿勢もあり、熱狂的な支持者を抱えている。

そんな吉良よし子議員が、共産党のイメージを根底から覆すような行動を見せた。
「公衆の面前で彼氏とイチャイチャ」をスクープされ、ツイッターでは「交際宣言」までしてみせたのだ。

■駅ナカで20分キス、男の耳甘噛みする一幕も■男=松嶋祐一郎31■

吉良よし子議員は高知県出身で、父親は共産党高知県議・吉良富彦という、いわば「共産一家」だ。
2013年7月の参院選で東京都選挙区から立候補し、70万票を超える票を得て3位で当選した。
共産党にとって、選挙区選で議席を確保するのは12年ぶりという快挙だった。

積極的に情報発信を行っているツイッターは約1万7500フォロワーを抱え、共産党内では小池晃副委員長、志位和夫委員長に次いでフォロワー数3位を誇る。
支持者からは日々応援や鼓舞の熱烈なリプライが寄せられ、共産党の看板娘と言ってもいい人気者だ。最近では14年3月21日、安倍晋三首相の「笑っていいとも!」(フジテレビ系)出演に抗議し、官邸前の「安倍首相は辞めていいとも!」コールに参加した。

そんな吉良よし子議員の「スキャンダル」を、2014/3月26日発売の「週刊新潮」が報じた。
「所構わず公園で 駅で 公道で 男とキスする女性マルキスト 共産党アイドル『吉良佳子議員』の革命的接吻」
というかなり力の入った見出しが付いている。

2014/3月21日から23日の3連休、同世代の共産党員の男性(松嶋祐一郎31)と連日逢瀬を重ね、
➊初日は電車に乗り込む直前に駅のホームで「熱烈キス」、
❷最終日には公道で「路チュー」、
❸駅構内でも20分近くに及ぶキスの嵐。
❹男性は吉良よし子議員の【胸に手を添え】
吉良よし子議員が男性の【耳を甘噛み】するような一幕もあったという。

それらの場面が「証拠写真」付きで記事になってしまった。
《共産党員の義務は「市民道徳と社会的道義をまもる」であったが~裏顔は別物で~!!》

▼吉良よし子の「交際報告」ツイート▼
「共産党の醜聞」のように報じられたが、当の本人はいたって楽しそうだ。

2014年3月25日、週刊新潮の発売に先手を打つ形で、
「今日の質問無事に終わりました!ところで、春ですね。そんな春にちょっとご報告。実はいま、真剣につきあっている人がいます。幸せです。みなさんにも応援してもらえたら光栄です♪」
とツイート。

支持者からは
「心からおめでとうございます」「春らしいホンワカニュースをありがとうございます」「頑張ってください!素敵な恋を!」
など、交際報告を歓迎するリプライが寄せられた。

翌3/26日午前には、
「おはようございます。たくさんの祝福&激励、本当にありがとうございます!!みなさんから元気をもらって、今日もがんばります」
と投稿している。

▼共産党の規約▼では、
党員の権利と義務として「市民道徳と社会的道義をまもり、社会にたいする責任をはたす」と定めている。
「路上で熱烈キス」「駅ナカいちゃつき」が「市民道徳と社会的道義」にかなうか否かについては様々な意見がありそうだが、
ひとまず「共産党アイドルの恋愛」はあたたかく見守られていきそうだ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

共産アイドル議員吉良佳子が撮られた「濃厚すぎるキス現場」:ところ構わずKiss
2014/3/27日刊ゲンダイ

共産党の吉良佳子参院議員(31)に熱愛が浮上した。3月26日発売の「週刊新潮」が、同じ共産党員の男性(32)との「路チュー」現場を掲載している。

吉良よし子本人はツイッターでこうつぶやいた。
<春ですね。そんな春にちょっとご報告。実はいま、真剣につきあっている人がいます。幸せです。みなさんにも応援してもらえたら光栄です♪>

凄いのは、2人のキスっぷりだ。
❶まず池袋駅の地下鉄ホームで堂々とブチュー。
❷別の日は目黒区の公道で「路チュー」。
❸さらに、都立大学駅の構内で20分も舌をからませ⇒駅近くの公園に移動して、"ベンチでキス"、"立ってはキス"と、とにかく、キス、キス…と接吻をしまくっている。

吉良佳子の唇を奪った男性党員(松嶋祐一郎32)は何者なのか?
「彼は目黒地区委員会の青年学生部長です。2011年の目黒区議選、昨年(2013)の都議選に出馬し、いずれも落選しましたが、今も毎日、中目黒駅や都立大学駅で街頭演説に励んでいます」(関係者)

いくらなんでも人前でやりすぎじゃないか!!

▼松嶋祐一郎(男/32)▼
松嶋祐一郎は東京都目黒区議選や都議選に共産党から出馬し落選した。
現在共産党目黒地区の雇用・福祉対策委員を務めている。

■2014/12/20=吉良よし子+松嶋祐一郎=結婚をしたと言う?
但し、初期の野田聖子(自民党)の様に同棲婚型[同居型?or通い男型?]なのか~
本格的な戸籍婚型なのか?は不明です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
■■■■■■■■■■■■■■■■■■

吉良佳子(吉良よし子)1982年9月14日(32歳)

■参議院議員(東京都選挙区当選回数1回)■
任期=2013年7月29日~2019/7(6年間)

■経歴■

高知県高知市出身。
高知県立高知追手前高等学校、
早稲田大学第一文学部(日本文学専修)卒業。

卒業後、東京・豊島区の宝印刷で4年間、「企業の社会的責任」の報告書作成支援の仕事に携わる。

❶2009年7月に実施された東京都議会議員選挙に日本共産党公認で豊島区選挙区から立候補⇒17,683票を獲得するも、次点で落選。
❷2013年7月に実施された第23回参議院議員通常選挙に日本共産党公認で東京都選挙区から立候補。703,901票を獲得し、3位で当選。
日本共産党としては12年ぶりとなる選挙区での議席獲得となった。
(東京都選挙区が5人区になってから3位当選した共産党議員は初めてである)

❸2014年日本共産党第26回大会で准中央委員に選出。

■家族■
父・富彦、母、弟。
▼父は高知県議会議員(日本共産党・高知市選出)の吉良富彦。
ーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーー

参議院議員の任期が2019/7までだが、
さて、次期選挙で落選するか?・・
なにせ、5年後だし、きっと東京都都民は記憶に忘れ、もうEEじゃないか?とそれに女だしと・・
また当選となれば・・・・??

父親がたまたま共産党だったから、佳子は共産党で生計を立てた
父親がもし自民党だったら、佳子は自民党で生計を立てる。
そんな程度の生き方なのだろう
肉体から噴き出す、赤い欲望をブチギレでガレキを作りながら突き進む吉良佳子!!

■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆
■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆■◆

【共産党・女性路上倒れ放置事件】
衆議院総選挙【大阪】共産党に批判殺到!⇒倒れた女性を放置し演説続行!!
2014/12/11J-cast

12/6日午前、JR森ノ宮駅前で行われていた《清水忠史》候補の演説中に駅構内で女性が倒れた。
しかし、選挙カーはなおも演説を中止せず、結果、救急隊への連絡が聞こえづらくなった。

ツイッターには目撃者と思われる人物から、
・「真ん前やで、真ん前。倒れてんの丸見えやのに」
・「一向に誰も声かけやん」
・「私がぶち切れるまで演説をやめてくれなかった」
との報告が寄せられている。

ーーーーーーーーーーーーー

■投稿ツイッター原文■
▼⇊ツイッター⇊minimum44(@SOUNDminimum)⇊{ツイートをしたアカウントは12/12日削除されてます}▼

❶⇒“
大阪、森ノ宮に朝から用事で行ったときのことです。森ノ宮駅に着いたのは10時前。改札を出て、駅を出たところに女の人が手を強く押さえたままうつ伏せで倒れてて。で、その真ん前には堂々と選挙カーが止まって大音量で誰も聞いてないのに演説中。真ん前やで、真ん前。倒れてんの丸見えやのに。
— minimum44 (@SOUNDminimum) 2014, 12月 8

❷⇒“
全く聞こえやんくて話通じなくて。わからんくて、で駅員に救急車呼べやら電話やらしてる最中、まーだ演説やめへんからプッチーンきて。 私がぶち切れるまで演説をやめてくれなかったっていうとこと。第一発見者が緑の蛍光ジャンパーのバアサンやのに眺めてるだけで何もしなかったってことと。
— minimum44 (@SOUNDminimum) 2014, 12月 8

❸⇒“
第一発見者が緑の蛍光ジャンパーのバアサンやのに眺めてるだけで何もしなかったってことと。真ん前で人が倒れてるのに、演説を続けたってことと。演説を中断してからも、演説がうるさくて電話で状況説明ができんところに『もう電話終わりました?』と聞いてくる無神経さと。
— minimum44 (@SOUNDminimum) 2014, 12月 8

❹⇒“
挙げ句の果てには『もう救急車来るんで、もう行きます』と行って、去ろうとしたこと。 日本共産党★清水ただしこのお方です。共産党は国民の命と安全を守るらしいんですが、目の前で人が倒れてたらこうなんです。政策とかマニフェスト見ても余計腹立つわ(笑) こんな政治家いやだ。
— minimum44 (@SOUNDminimum) 2014, 12月 8

ーーーーーーーーーーーーー

★1⃣日本共産党大阪府委員会は、取材に対し、
「女性が倒れたさい、演説を行っていたのは清水候補本人でなく、係の者だった」「女性に気付いた清水候補は係の者に注意し、演説をやめさせた」
と話している。
日本共産党大阪府委員会は2014年12月10日、12/6日の演説中における選挙カーの対応を公式ホームページで謝罪した。
「事故や病気への対応を最優先すべき事は当然であり、今後は乗務員一同機敏な対応が出来るように徹底していく所存です」としている。

★2⃣ペヤング焼きそば・ゴキブリ写真の投稿ツイッター者のアカウントは削除された。と同じく
この共産党・女性路上倒れ放置事件の投稿ツイッター者のアカウントは削除された。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
■■◆◆■■◆◆■■■⇊◆■■■■⇊◆■⇊◆◆■⇊

理解に苦しむ安倍首相とヒトラーを重ねる主張⇒ちょびヒゲ姿
2015.1.9ZAKZAK・ジャーナリスト石井孝明

安倍晋三首相とヒトラーを重ね合わせるような主張がある。
昨年2014/12大みそかのNHK紅白歌合戦で、サザンオールスターズの桑田佳祐が、
ヒトラーを連想させる★「ちょびヒゲ」をつけて登場した事などを受け、インターネットや一部メディアで盛り上がったのだ。
歴史知識の欠如ともいえる指摘について、
元時事通信記者で、安全保障や戦史、エネルギー問題に詳しい、ジャーナリストの石井孝明が迫った。

★ちょびヒゲ姿の桑田が紅白でメッセージ性の強い「ピースとハイライト」を歌った事を受け、
ネットなどに
・「安倍政権への批判だ」
・「目を覚ませ若者諸君!」などと、賛否両論、炎上に近い投稿が相次いだ。

朝日新聞は2015/1/6日朝刊でこの件を「サザン 紅白での歌がネットで反響」として取り上げ、
「『裸の王様♪』政権を批判?」・「『素晴らしい』『応援しない』」などと見出しを掲げた。

TBS系『サンデーモーニング』は1/4日の放送で、「群衆と戦後70年」という特集を組んだ。
ネットやツイッターでは
・「安倍政権とヒトラーの類似性を指摘している」
・「洗脳する気か」といった反応があった。

しかし、
歴史をひもとくと、ヒトラーと安倍首相、そして2人の政権はまったく似ていない。一連の批判は完全な的外れだ。

まず、
ヒトラー政権は犯罪集団だった。
著書『わが闘争』で示されたように、ユダヤ人を主敵とする排外主義、東方地域への領土拡大、政治における強力な指導の必要性を強調した。
これらは第2次世界大戦の原因になり、数百万人のユダヤ人の虐殺、他民族の抑圧につながり、国を滅亡させた。

一方、
安倍政権はアベノミクスで日本経済を復活させ、デフレ脱却を目指している。
「地球儀を俯瞰する外交」は、排外主義や領土拡大とは相いれない。
憲法改正で国の変革を主張するが、現行憲法にこそおかしなところが多々ある。改憲には賛否両論あるが、犯罪性はない。

政治手法も異なる。
ヒトラー率いるナチスは1932年、ドイツ・ワイマール共和国の選挙で第1党になり、1934年のヒトラーの総統就任まで、合法を装いながら、違法な政治権力の奪取をした。最大で200万人を数えた暴力組織「突撃隊」(SA)を暗躍させ、政治殺人と暴力を続けて反対派を力で押さえ込んだ。人々の「強力な政治指導者」への待望も利用した。ヒトラーは一種の「悪魔」だった。

安倍首相は2012年衆院選で政権奪還に成功し、2013年の参院選と2014年の衆院選で圧倒的勝利を収め、国民の信任を得た。
こうした過程で、安倍政権が暴力による政治活動を行った事はない。

■一部の野党議員(吉良よし子共産党参議院議員)■は、
ヒトラーの様にちょびヒゲを描いた安倍首相の顔をドラムに張り付けて叩き続けるパフォーマンス写真をネットに掲載し、批判を受けた。その方が暴力的だ。

今年2015は第2次世界大戦終結から70年にあたり、その総括が国際的な議論になる。
そこで、自国の首相を「犯罪者だ」と叫ぶような行為は、日本の国際的イメージを傷つける。
そして、
◆欧米の論壇では政治家をヒトラーに例えるのは最大限の侮辱だ。一国の首相に対する事実に基づかない誹謗は許されないはずだ。

ヒトラーから考えるべき教訓は、
「民主政治は合意をつくるのが難しく、決定が遅れる」という事だ。
安倍政権は山積する課題を乗り越えて「改革を断行」(首相年頭記者会見)できるのだろうか??!!

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
▼海外ニュース・ドイツ▼

■ヒトラー変装写真で代表辞任・独の反イスラム団体■
2015年1月22日共同通信【ベルリン共同】

・《西洋のイスラム化に反対する愛国的な欧州人》の団体で
ドイツ・ドレスデンで反イスラムデモで演説するルッツ・バッハマン代表=2014/12月[AP共同/写真]
・ドイツの反イスラムデモの主催団体=《西洋のイスラム化に反対する愛国的な欧州人》の
ルッツ・バッハマン代表(41)が1/21日、
ナチス・ドイツの指導者ヒトラーに変装した自らの写真をフェイスブック上に投稿した事を報じられ、代表を辞任した。と同団体が発表した。

●ドイツでは公の場でナチスを礼賛すると罪に問われる。
報道によると検察当局は刑法の民衆扇動容疑で捜査を開始した。
・バッハマンは、
ドイツの反イスラムデモの象徴的存在。
デモには【ネオナチ】や極右勢力が加わっているとの指摘が絶えなかったが、
ヒトラーに変装した自らの写真の影響で団体のイメージ悪化は避けられない。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

大須田勉
Viewing all 21 articles
Browse latest View live