
最前列3人=宮本・野坂・袴田里見↑
■日本共産党袴田里見事件■
組織が、生の人間の上位にある。
と言う証明事件。
袴田里見!日本共産党に楯突くとは50億年早い。と言う事件
(太陽系=あと50億年で爆発します)
袴田里見(はかまだ さとみ)、
(1904年(明治37年)8月11日 〜 1990年(平成2年)5月10日=86歳没)
は、大正、昭和期の社会運動家、元日本共産党の幹部。
戦前の非合法政党(第二次共産党)時代以来の共産党活動家で、
戦後は党副委員長となった。
1977年、党から規律違反により除名処分を受けた。
■履歴書■
●1904年(明治37年)8月11日 - 青森県上北郡下田村(現在のおいらせ町)に生まれる。
●1919年(大正8年) - 高等小学校を卒業後、上京して攻玉社中学に入学するが中退。電信労働者、製缶工などの職に就きながら労働運動に関わるようになり、
東京合同労働組合に入り活躍する。
●1925年(大正14年) - ソビエト連邦に渡り、
モスクワの東方勤労者共産大学(クートヴェ)に学ぶ。
●1926年(昭和元年)[元号要検証] - ソ連共産党に入党。
●1927年(昭和2年) - クートヴェを卒業し、帰国。
”宮本顕治”らと日本共産党の再建に着手する。
しかし、治安維持法違反で検挙され、堺刑務所に服役する。
●1932年(昭和7年) - 釈放後、地下に潜伏し東京市委員など共産党運動に取り組む。
昭和8年(1933年)日本共産党中央委員に選出される。
●1935年(昭和10年) -”宮本顕治”などの幹部が次々逮捕される中、
唯一獄外にいた共産党最後の中央委員であったが、本郷での全協との街頭連絡のさなか再び逮捕される。獄中では非転向を貫く。この逮捕を報道した新聞は最後の大物と称した。
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終戦後 - 他の共産党員とともに釈放。
以降、中央委員、政治局員、幹部会員を歴任。
●1959年には参議院議員選挙に立候補するが落選する。
●1970年(昭和45年) - 党副委員長に就任。この間に党を代表してソ連や中国を訪問。
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■日本共産党袴田里見事件の勃発■
日本共産党の世間に見せられない肥溜め欲望の悪魔男の蓋を
袴田里見が開く。
しかし、善人心では組織は作れない。
人を人と思わず、地獄の滴る血を飲み干し、食い殺す様な悪魔心を持たずして
組織は作れない。から、あって当然である。
人民をブルトーザで、踏み潰しその潰れた肉を土台にして、
組織を建てる心のない者は、組織構成員になるべきではない。
しからば、
赤攻撃・地獄のリンチ・投獄にあろうと、
日本共産党は、たとえ人類が絶滅しても
共産党生物種として生き残る。
●1977年(昭和52年) - ”日本共産党査問リンチ事件”に関連して
週刊誌などで虚偽により、■党や宮本顕治を攻撃した■。
これは党規約の「党内の問題を党外に持ち出さない」という基本原則上問題となり、
本人も党の調査に応じなかったことから、
●1977年12月30日の党中央統制委員会で本人欠席のまま、
「規律違反(党外からの党攻撃)」を理由に除名処分を受ける。
●1978年(昭和53年) - 11月に、
⇒新潮社から手記暴露本「昨日の同志宮本顕治へ」を出版し、
反共層を中心に話題を呼んだ。
また
⇒1978年12月には「私の戦後史」を朝日新聞社で出版した。
●1988年(昭和63年) - 袴田里見が除名後も党と関係が全くなくなったにも関わらず依然として居住していた、
共産党所有の家屋の明け渡しをめぐる訴訟(共産党袴田事件)で、
最高裁判所が袴田の上告を棄却し、敗訴が確定。
●1990年(平成2年)5月10日 - 86歳死去。
■エピソード■
没後公開されたソ連の秘密文書により、
野坂参三(後に彼も重大な規律違反が判明し当人もそれを認めたため除名処分)、
とともにソ連からの秘密の接触がしばしばあったことが判明した。
実は袴田里見は日本共産党を除名される前にも、
野坂参三に関する疑惑を暴露している。
日本共産党は「反共毒素一掃キャンペーン」として多数のパンフレットや書籍を発行していた。
これは「現役党幹部が叛旗を翻した」ことによるダメージの一掃、と推測されるが、
野坂参三の疑惑を党自体も承知していて、それを隠蔽したいが為であった。
という意見もあるが、
当時は、ソ連秘密文書はなかったわけであり、
事実と道理に基づいて問題点の解決にあたるという基本方針上からは
問題のないことがらであった。
弟の袴田陸奥男は、ソ連に亡命した日本共産党員。
青山学院大学教授の袴田茂樹と、
ロシアの政治家イリーナ・ムツオヴナ・ハカマダは
袴田陸奥男の息子と娘である。
すなわち袴田里見からみれば甥と姪になる。
共産党除名当時、
袴田里見は党が所有する家屋に居住しており、
除名により党が明け渡しを求めて袴田里見を相手取って民事訴訟を起こした。
除名処分という政党の内部審査が司法審査に馴染むかが争点となったが、
最終的に裁判所は党側の主張を認めた。
この点では、
組織が個人に勝った。と言える。
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大須田勉